Record China 2017年1月2日(月) 14時0分
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20年以上経済の低迷が続いている日本にとって、Eコマースは貴重な明るい材料といえる。「日本のEコマースの最も堅固な要塞」の親会社がストリームグループであり、そのトップが正真正銘の中国人であることを知る人は少ないのではないか。
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できる人はどこに行ってもできる
人生は多くの変数に満ちている。ある扉を開けて入ろうと思った時、運命は違う扉へと進ませる。1995年に大学を卒業した時、劉海涛は船舶会社に就職しようとしていたが、思わぬことに上場企業である株式会社亜土電子工業に入社することになり、新しい人生の道を歩くことになった。
亜土電子工業はもともと電子部品の貿易商社であり、早くから海外産のパソコンを輸入し日本で販売していた。1980年代後半、日本のバブル経済とともにパソコンが普及し始め、亜土電子工業は急速に成長した。劉海涛は社内で水を得た魚のごとく活躍し、中国市場の開拓を担当した。海外事業部門の初の外国人である彼の業績はずっと第1位で、すぐに1人で受け持つようになり、海外業務開拓の第一人者となった。
しかし、1990年代の日本経済のバブル崩壊により、亜土電子工業の経営も急激に悪化し、1999年にはシステム開発会社である株式会社CSKの子会社となった。CSKの経営戦略の調整により、中国とアメリカの工場を閉鎖し、海外事業部のリストラを行った。会社全体の状況は悪化し続けたものの、劉海涛が開拓した海外事業はずっと業績がよかった。親会社の「一刀両断」の決定に劉海涛は納得できなかった。「悪化した事業にも良い部分はある。こうした『違い』には区別して対応し、さらに展開させることが必要だ。なぜ海外事業の放棄を選択するのか」。
目標の異なる者は共に事を成し遂げられない。劉海涛は憤然として辞職を選び、起業して海外事業の開拓を継続することを決めた。外国人にとって、こうした情況での起業は辞職後の必然的な選択といえるが、そうではなかった。「起業は感情に任せるだけではだめで、私は再三検討し、細かくそろばんを弾き、ようやく海外事業を展開するのではあれば起業が一番だという結論に達した」。
1999年、劉海涛はパソコンや周辺機器を中国向けに輸出する株式会社ストリームを設立した。会社には以前の部下だけでなく上司もいた。皆で一緒に盛り上げた。「狼は千里走って肉を食う。能力のある人は環境に制限されず、どこに行っても事業ができるものです」と感慨深けに劉海涛は語る。
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