<コラム>日本の精神と日本的儒学

海野恵一    2020年8月12日(水) 23時0分

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「日本の精神と日本的儒学」というテーマで幾度か出稿してきましたが、今回が最後になってしまいましたので、今まで書き溜めていた原稿をアップして終了したいと思います。

易経

易経の艮為山(ごんいさん)の卦に、「その背に艮(とど)まりてその身を獲ず。その庭に行きてその人を見ず。咎なし」とあります。すなわち、感覚器官のない背中に精神を留めておけば、無我の境地になれます。そうなれば世間の人たちに影響されないし、煩悩、妄想や欲望を抱きません。このような境地に達すれば、人から非難されるような過ちも犯すことがないのです。

昔の人は壮大な宇宙をこの易になぞらえて、物事を判断し、スケールの大きな真理の追求を真摯に受け止めていました。この現代では目先のことに一喜一憂しすぎています。それでは家庭も企業も国も治らないでしょう。妻の小言をおおらかに受け止められるような心構えを身につけることからこうした修身が始まるのです。

慢心、傲慢、不信、不安を持たず謙虚になることはなかなかできることではありません。儒学では嬉しい時でも心が動いてはいけないと言っています。ただそれだけのことですが、そうした修練には何年かかっても容易に達成することはできません。思いがしきりに行ったり来たりして、心が彷徨すれば、周りの人もそれぞれに勝手なことを思い感じて迷ってしまうということなのです。

心が迷うのは、私心や私欲に惑わされて、物事を真に受け止めて感ずることができないからです。私心を捨てて物事に対処すれば、決してその言動と行動はブレません。物事を行うときに、毅然として行わなければ、相手はその行動に不信感を持ちます。心が安定していなければ相手に何を言っても相手はついてはきません。自信がない言動には誰もついてこないのです。行動、態度は常に毅然としていなければなりません。

菜根譚

「径路窄(せま)き処は、一歩を留(と)めて人の行くに与え、滋味濃(こまや)かなるものは、三分を減じて人の嗜(たしな)むに譲る。これはこれ、世を渉る一の極楽法なり」

これが「江戸しぐさ」です。江戸時代の人は菜根譚を勉強していました。人に道を譲る。美味しいものは他の人に分け与える。こうした道徳がありました。

「人生の経験が浅いものは悪の染まり方も浅いが経験豊富になると小細工も上手くなり、悪の染まり方も深くなる。だから上に立つ者は、世渡り上手になるより、素朴で多少のろまな程度が良い。現実的な手練手管を駆使するより、理想や夢を追っている方がよい。」

妻をうまくごまかそうとしてはいけません。妻はそういうことには賢いのです。すぐにあなたの魂胆を見抜いてしまうでしょう。だから、手練手管はつかわずに、言われたままに行動すればいいのです。そのためには妻が文句を言ってきた時に、腹を立てて、あなたの感情が動く前に、ためらわずにすぐにあなたの過ちを認める行動を起こすことです。

「ただ廉なれば威を生ず」

清廉であれば威厳が生じてきます。清廉とは心が清らかで私欲がないという意味です。すなわち、好き嫌いをせず、打算を持たず、欲を張らず、嫉妬をしないように身を納めるという意味です。そこから威厳が生まれてくるということを我々は改めて認識しなければなりません。

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