<コラム>日本の精神と日本的儒学

海野恵一    2020年8月12日(水) 23時0分

拡大

「日本の精神と日本的儒学」というテーマで幾度か出稿してきましたが、今回が最後になってしまいましたので、今まで書き溜めていた原稿をアップして終了したいと思います。

五倫と教育勅語

孟子の言葉をベースにした教育勅語は日本の精神そのものです。日々の生活の中で我々は優しい問題を難しくしていないでしょうか。儒学ではもっとも大事なことは両親を大切にすることだと説いています。最近の日本人はこうしたことがわかっていない人が多いと思います。両親を大切にするということは親があなたを自慢できるような人物になってほしいということなのです。言い換えれば、家の家系を大事にするということです。だから、自分を粗末にしてはいけません。そのために修身するのです。

戦後の教育が教育勅語を廃止してしまったので日本の精神が荒廃してしまったと言えます。教育勅語には父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五項目の「五倫」があります。

父子の親

現代の中国においては絶対的な無条件の親への忠誠となっています。日本では江戸時代まで寺子屋の暗記項目に論語と孝経がありました。親を愛することはとりもなおさず、目上の人や先祖を敬うことと同じです。そうすれば孟子は天下が自ずと治まるといっています。また自分も、子に大切にされる親になる努力を怠らず、他人に敬われるような年長者になるべく力を尽くすことです。もちろん、妻の両親も大事にしなければならないのは当然のことです。親を大事にすれば妻が付いてきます。「仁義礼智信」を妻に教えなくても、妻は本能的に夫についてくるでしょう。

親を敬うことに関しては「孝経」の冒頭にこういう言葉があります。

「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始め也。身を立て道を行い、名を後世に挙げ、以て父母を顕すは孝の終り也。それ孝は親に事(つか)ふるに始まり、君に事(つか)ふるに中し、身を立つるに終る。」

親の名に恥をかかせないように努力するという考えは今の人は持っていません。今では卒業式の時に歌う「仰げば尊し」の中の「身を立て、名を挙げ」と言う文言の中にしか残っていないのは寂しい限りです。

君臣の義

欧米や中国と違って、日本人は家庭よりも職場を大事にします。そういう意味では「父子の親」よりも「君臣の義」を重んじる傾向にあるでしょう。企業における対人関係の方を大事にするということですが、天皇を頂点とした日本の歴史的組織体制にあったのかもしれません。妻子よりも国家の方が大事であった時代がそうさせてきたのでしょう。結局、企業のために、一生懸命忠誠を尽くしてきましたが、人間の本質をどう理解するのかという部分が江戸時代の終焉とともに欠落してしまったといえます。妻を理解することはとりもなおさず、リーダーシップとは何かを問うことと同じことなのです。この部分が今の日本人には欠落していると言えます。

夫婦の別

孔子がおっしゃいました。「女と取るに足らぬ男は扱いにくい。親切にすれば調子に乗るし、親切にしなければ恨まれる。」この孔子の言葉が昔の風習だと言って片付けてしまうわけにはいきません。女性を取るに足らぬ男と一緒にして「扱いにくい」と孔子が言っているのは男女の頭の構造が全く違うということを言っているのです。女性から見れば男は同じように扱いにくい存在なのです。だから、女は男とは全く違うということを認識する必要があります。話せばわかるという感覚自体が悪女のレベルにもよりますが、全く通じないということです。だから、五倫では「夫婦の別」と言っているのです。「別」なのです。

我々は悪女と悪人の違いは五常、五倫の徳の心を持っているか否かで判断しています。悪女は情緒的、感情的で、わがままで、自己中心、欲張り、嫉妬深いといえます。さらに嘘もつきます。だが悪人ではありません。悪人を見分けることは難しい。悪人とは心の卑しい人間のことで、こうした人と付き合うと身ぐるみ持って行かれます。悪女は男を修める上で大事な対象なのです。

妻とは自分の嗜好だけで話をしてはいけません。彼女の関心事はあなたとは違うのです。彼女とは関心のある話題が違うという前提で、会話をしなければなりません。あなたの話題を受け入れないからと言って、彼女を無視してはならないし、彼女の考えを否定してはなりません。

妻はよく口癖のように「全く私の気持ちを理解していない」といいますが、理解しようにも、コロコロ気持ちが変わるので、男が追いついていけないのです。その挙句に、「あなたくらい自分勝手な人はいない」と言い出しますが、どっちが自分勝手なのだろうか訳がわからないのです。その時はじっと我慢しなければなりません。男は好き嫌いをせず、打算を持たず、欲を張らず、嫉妬をしない事が大事です。何度自分に言い聞かせても、妻に反論してしまう事が多いと思います。そうしたことに対して、何回でも反省しなければなりません。理不尽でも何でも、男が譲歩するのです。男と女は頭の構造が違うのです。

長幼の序、朋友の信

何もない平穏な時は君子も小人も同じですが、いざとなった時に、その人の価値が現れます。孔子は上に立つ者はどっしりと構えていないといけないと言っていました。でなければ威厳が無くなると言いました。呂新吾(ろしんご)は格好良い男とは深沈厚重な男のことだと言っています。

一番優秀な人物というのは頭のいい人ではないし、豪快な人物でもないということです。落ち着きがあって、心が定まった人が一番いいのです。身を修めて、家を斉えることによってそうした人間としての重厚さと威厳が身について行くのです。それもひとえに悪妻のおかげです。

敬うということは相手を尊んで、礼を尽くすことであり、尊敬するということです。歳相応の徳を身につけていない人に対しても敬う必要があります。そうすることによって、自らの修身にもなるのです。第三者が見れば、本人に対する評価が上がることになります。

「信頼」は現代の日本人が持っている「信頼」とは違って、どんなことがあっても、未来永劫、信用するということを意味します。最近の日本人の多くは一般的に時間の経過と状況によってその「信頼」は変化するようです。困ったものです。

この記事のコメントを見る

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China・記事へのご意見・お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業務提携

Record Chinaへの業務提携に関するお問い合わせはこちら

業務提携