私の24年間、2000年のソウルの夏から2024年の東京の冬まで

北岡 裕    2024年12月20日(金) 23時0分

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北朝鮮から統一という言葉が消え、伝統ある国歌の歌詞が変わった。このことに私は戦慄している。写真はマスゲームのアリランで掲げられていた「統一の門はわれら民族同士で」のスローガン。

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2000年のソウルの夏は間違いなく6月13日に始まった。

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その日、平壌で初の南北首脳会談が開かれた。私は学校へ行かず、バスでソウル駅に向かった。ソウル駅の街頭テレビの前で市民に混じり、平壌からの生中継を眺めた。

釜山行きの汽車に乗って旅をしていた友人は、車掌が車内放送でずっと南北首脳会談のラジオ中継を流していたと教えてくれた。乗客は誰も文句を言わなかったという。

ソウル駅の広場で、23歳の私は今日から夏だと唐突に思った。うだるような熱気と人いきれと興奮が体中から汗を呼び、まるでにわか雨にあった不幸な人のように体が濡れた。私はその時確かに歴史の中心にいた。歴史とは教科書に書かれるだけの縁遠いものではなく、また博物館にある色あせた絵巻やひび割れた陶磁器のようなかび臭いものではなく、自分のすぐ隣にある、出来立ての氷柱のようなみずみずしいものなのだと知った。

作家の三島由紀夫は死の直前に「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」という文章で戦後25年を振り返った。ほぼ同じ時間、24年間を私は2000年のソウルの夏の始まりの日から今日まで過ごしてきた。2010年の天安艦沈没事件と延坪島砲撃事件に緊張し、数度の南北首脳会談を見た。その間、南北関係は緊張し、また接近、融和もした。目指す形は違っても、統一を目指していることは南北共に変わらないと信じていた。

それにしても、北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国が韓国のことを「南朝鮮」ではなく「大韓民国」と呼び始めた時の違和感は強烈なものだった。かつて私は平壌で「韓国」と言ってしまい、「南朝鮮です」と怒られたことがある。「われわれは統一を目指している。韓国と言われると分断を追認されている気がして実に不快だ」と北の案内員に言われ、平謝りした。K-POPや韓国ドラマの流行から韓国語が人気と聞くが、実はこの言葉は国名一つ述べるだけでもここまでの繊細さが求められるのだ。故に北朝鮮が「大韓民国」と呼び始めたことは衝撃で、その意味は深かった。

アリランの「土地も一つ」の文字

その後、軍事境界線沿いに壁が出来、南北をつなぐ線路と送電線が切断された。そしてビラとごみが軍事境界線をまたいで飛び交う。物理的な断絶と対立に加え、北朝鮮で平壌文化語保護法、反動思想文化排撃法という、韓流コンテンツを制限し、韓国風の話し方にまで制限を加え厳しい処罰を与える法律が成立した。金正恩総書記は統一政策の放棄を宣言し、「もはや同族関係、同質関係ではなく、敵対的な二つの国家関係、戦争中の二つの交戦国関係に完全に固着した」と述べた。「大韓民国」は「傀儡韓国」へと表現が変わった。あくまで今の政権と統一は出来ないという意味で、傀儡というのも尹錫悦政権に対して述べたものであり、韓国の一般国民を指すものではないと断りはあるものの、やはり衝撃は大きい。

振り返ればここまで、あっという間の出来事だった。

今年2月、私は国立競技場で女子サッカーの北朝鮮代表対日本代表戦を北朝鮮側応援席で観戦した。北朝鮮国歌の一つの朝鮮半島を意味する歌詞「三千里」が「この世上」へと変わった直後だった。約3000人の観客の国歌斉唱の歌声が乱れた。知らなかったのか、それとも知っていてあえて三千里と歌ったのか。後に在日コリアンの方々に聞くと、答えはそれぞれだった。乱れた歌声が再び元に戻る短い間に、取り返しのつかない変化を感じた。

9月に北朝鮮を訪問した在日コリアンの方に話を聞いた。現地では韓国のことを「傀儡」「傀儡韓国」と呼び、ホテルや食堂でよく流れていた統一を歌う統一歌謡は一切流れていなかったという。平壌地下鉄の統一駅が牡丹峰駅と名前を変えたニュースも先日流れた。

統一という言葉が消えた。街から統一を願う歌が消えた。伝統ある国歌の歌詞が変わった。このことに私は戦慄している。在日コリアンの友人は、まるで筒井康隆の小説「残像に口紅を」と同じだと話してくれた。この作品は一つまた一つと言葉が消えていく世界をコミカルに、筒井流の独特のブラックユーモアを利かせて書かれたフィクションだが、フィクションを超えるノンフィクションが今、現在進行形で進んでいる。すぐ隣の国で。

アリランの「祖国統一、われら民族同士」の文字

先日、朝鮮学校のイベントを訪れた。イベントでは通常、最後に「統一列車は走る」という曲を流しながら、大人も子どもも参加者が電車ごっこの形で会場を練り歩く通称「統一列車」で締めくくるのだが、この時は「統一列車は走る」は流れなかった。電車ごっこの形で練り歩いたのだが、「統一列車」と誰も呼ばなかった。集まった人はただ電車ごっこをしていた。

ウクライナへの北朝鮮の派兵、北朝鮮製兵器の輸出、ロシアとの包括的戦略パートナーシップ条約の締結と朝ロの軍事接近が報じられ、第三次世界大戦への懸念もうかがえるが、それよりも私は統一という言葉が消えていく現状がより怖くまた悲しいのだ。平壌文化語保護法、反動思想文化排撃法もそうだ。体制を揺るがす韓流コンテンツの視聴や流布にとどまらず、韓国風の話し方や言葉を法で縛るというのか。縛ることが出来るのか。その禍根はどれだけのものなのか。砲声は聞こえないが、南北の対立の段階は明らかに一線を越えた。

かつて日本にも方言札と呼ばれるものがあった。沖縄などで児童が学校で方言を使うと罰として「私は方言を使いました」という札を首から掛けさせられた。台湾や朝鮮半島で行われた皇民化教育も同様だ。その愚かさを私たちは知っているはずだ。

韓国で戒厳令を巡る騒動があり、尹錫悦政権の今後は不透明になった。次は保守派の尹大統領に比べると進歩派、北朝鮮に融和的な政権が出来て南北間の関係は対話交流路線へとまた転換するのかもしれない。しかしそれはあくまで近視眼的な見方で、ここで再び三島由紀夫の「果し得ていない約束」を想起する。三島は「このまま行つたら『日本』はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう」と日本の未来を予言した。今や経済大国であることすら危ういが、三島が見ていた日本の未来の正しさに驚かされる。

三島のオマージュではないが、極東の一角にある半島の未来を私も想起する。幸いにも政権が代わることで今後も戦火を交えず、南北は緊張とある程度の外交関係と交流を維持した形で安着するのかもしれない。よしんば統一したとしても、相手を敵国とし、また相手の言葉を縛り、統一という言葉が消えた禍根は残るだろう。想像以上に根深く。まるで映画「男はつらいよ」の寅さんのように「いようっ!」とからりと、しれっと、あっけなく、そんなことなかったよねと消された統一という言葉が帰ってくるとは思えない。お互いに憎しみを感じず、戦火を交えず、決定的な関係破綻はなくとも統一は目指さず、一つの朝鮮と互いに言わず、無関心にそれぞれの生活と時間を重ねていく。分断は固定化され、三島の言うところのニュートラルな状況が朝鮮半島に残る。それは果たして幸せなことなのか、そうではないのか。「それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」と三島はこの遺言のような文章を締めくくったが(そしてその直後に自死したが)、虚しさと寂しさと心細さを感じつつも、私はもうしばらくだけ生き続けて、統一という言葉が消えた、特に朝鮮半島の北半分の未来についてこれからも話し、また書き続けたいと思っている。胸につかえた心苦しさとその痛みを感じながら。ソウルで夏の始まった日の24年後、とても冬とは思えない暖かい東京の空の下で。

■筆者プロフィール:北岡 裕

1976年生まれ、現在東京在住。韓国留学後、2004、10、13、15、16年と訪朝。一般財団法人霞山会HPと広報誌「Think Asia」、週刊誌週刊金曜日、SPA!などにコラムを多数執筆。朝鮮総連の機関紙「朝鮮新報」でコラム「Strangers in Pyongyang」を連載。異例の日本人の連載は在日朝鮮人社会でも笑いと話題を呼ぶ。一般社団法人「内外情勢調査会」での講演や大学での特別講師、トークライブの経験も。過去5回の訪朝経験と北朝鮮音楽への関心を軸に、現地の人との会話や笑えるエピソードを中心に今までとは違う北朝鮮像を伝えることに日々奮闘している。著書に「新聞・テレビが伝えなかった北朝鮮」(角川書店・共著)。

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※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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