中国初の大発見、河北省の鄴城遺跡で仏像が大量出土―専門家がその意義を解説

中国新聞社    2023年10月31日(火) 15時30分

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河北省邯鄲市臨漳県は、特に変わった点はない中国の一地方だ。しかしこの地からは、1回の発掘調査で過去最大規模の仏像が出土したことがある。

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河北省邯鄲市臨漳県の人口は約50万人で、中国の県レベル行政区として人口が全国平均よりやや多い程度だ。しかしこの地はかつて鄴城(ぎょうじょう)と呼ばれ、中国北部における極めて重要な大都市だった。そして2012年に実施された考古学調査により、極めて大量の仏像が出土した。「鄴城での出土品は中国仏教史の半分を語る」と言われるようになったほどだ。中国社会科学院で仏教関係の考古学研究の責任者である何利群研究室副主任はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、鄴城遺跡から出土した仏像が語るものと、なぜ大量の仏像が地下に眠っていたかを説明した。以下は何副主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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大量の仏像がなぜ、1カ所から出土したのか

鄴城は漢代末期から南北朝時代まで、つまり3世紀初頭から6世紀末ごろまで、極めて重要な都市だった。北朝時代に出現した東魏や北斉は、鄴城を都とした。

鄴城は中国に伝来した仏教の、一つの拠点でもあった。当時は西域出身の高僧の仏図済が中国北部で仏教を広め、後趙(319-351年)の皇室が仏図済に極めて熱心に帰依したなどの状況があった。中国北部を支配した北魏が534年に東西に分裂すると、550年まで元の北魏東部を支配した東魏は都を洛陽から鄴城に移した。洛陽の僧や尼もほとんどが、鄴城に移った。このことで鄴城では仏教が大盛況を呈した。鄴城での仏教が最も繁栄したのは、東魏の次の北斉(550-577年)の時期だった。

中国社会科学院考古研究所と河北省文物研究所(現・河北省文物考古研究院)が共同で結成した調査チームは2012年に臨漳県鄴城遺跡東部で、仏像埋蔵穴の遺跡を緊急発掘した。

仏像埋蔵穴は一辺の長さが約3.3メートルの不規則な四角形の土坑で、深さは1.5メートル前後だ。場所は東魏から北斉にかけての、外郭城内の河原だ。

16日間の発掘作業で仏像2895点や3000点前後の仏像の破片が見つかった。文字が確認できた出土品は約300点だ。出土品は東魏から北斉かけてのものがほとんどで、少数ではあるが、その前の北魏の時代や時代が下って618年に中国を統一した唐代のものあった。

鄴城は一時期、中国北部の仏教文化の中心地だった。しかし、北周の武帝(在位:560-578年)の仏教弾圧で仏像などは被害を受けた。その後、隋代(589-618)には修復されて再び信仰の対象になったが、唐代には再び仏教排斥が何度か行われ、これらの像は再び破壊された後、まとめて埋められた。それから1000年余り後の今日に、再び日の目を見たわけだ。

出土した仏像の表面の色彩の保護や、箔付け補強、破片のつなぎ合わせは非常に困難な作業であるため、出土して10年以上が経過した今も、修復作業が続いている。

鄴城遺跡での仏像の出土は、過去最大規模だった。出土した仏像は製作された時代の特徴をはっきりと示している。また、中国の歴史で数回にわたって発生した仏教弾圧の状況や、仏像を埋めた制度を検討する上でも、重要な手がかりを提供した。

出土した仏像は精巧に作られ形も美しい。種類や題材も豊富で、中国の仏像芸術の一つのピークを代表している。多くは仏像の背後に板状の部分があり、そこにも彫刻を施した様式だが、単体像もある。主な題材は釈迦像、阿弥陀如来像、弥勒像、釈迦多宝像、思惟太子像、観世音像、双菩薩像などだ。多くは彩色や箔付けの痕跡が比較的良好に保たれており、鄴城が当時の中国北部のける仏教学と仏教芸術の中心だったことを如実に示している。

出土仏像の至宝、「譚副造釈迦像」

とりわけ重要な出土品は「譚副造釈迦像(譚副像)」と呼ばれるものだ。欠損もあるが残った部分の高さは1.28メートルで、主尊の高さは77.7センチだ。主尊の背後の板状の部分にも仏や人物を彫る様式で、全体に彩色された絵が描かれ金箔も貼られている。鄴城地区から出土した時代の最も古い北魏の像の一つであり、最大の像でもある。

譚副とはこの像を作った仏師の名だ。譚副像には供養する俗人のも表現されていて、その中には、譚副の両親や譚副夫婦、さらに譚副の子の姿もある。

北魏は鮮卑民族が樹立した王朝だ。しかし6代皇帝の孝文帝(在位:471-499年)は全面漢化政策を断行した。例えば鮮卑人の姓を漢式に変更し、鮮卑語や鮮卑風の風習を禁止するなどだ。譚副像で表現された人の服装から、この像はそんな時代の世相を反映させたものと分かる。

譚副像は作品としての完成度が高いだけでなく、描写の対象が多様だ。そのため、北魏中後期の仏教崇拝理念や画像様式、造形芸術、さらに建築と装飾を研究する重要な資料であり、西暦5世紀中後期の中原北方地区の仏教像の発展と変遷を検討する上で重要な意義を持つ。

譚副像にはガンダーラ美術の影響もある。ガンダーラは現在のパキスタンとアフガニスタンの一部地域で、シルクロード最大の交通の要衝だった。仏教美術のガンダーラ様式はシルクロードを通じて中国本土に伝わってきて、北魏時代に中原北方地区に広がった。雲岡石窟にもガンダーラ様式の影響が強い像がある。譚副像の主尊は、がっしりとした体格にほっそりとした腰を持ち、肩を覆うような通肩袈裟を身にまとっている。ガンダーラ様式の影響を受けた造形だ。

譚副像など鄴城遺跡での出土品、さらに雲崗石窟の作品には同時に、同時に中国に伝わってから現地化した部分や新たな工夫も多い。すなわち、5世紀中後期の東西文明の交流、南北民族の融合、多文化の衝突の特徴を十分に示している。

鄴城を通じて西方文化が日本などにも影響

鄴城は南北交通の要衝に位置し、東西文化交流の通路であるシルクロードの重要な通過点でもあった。特に後漢以降には匈奴、鮮卑、羯、氐、羌などの民族が続々に移住してきた。鄴城の街づくりに取り組んだ民族は極めて多く、人口の面で大きな影響力を持つ漢民族とその他の民族の大融合が出現した。

北魏の孝文帝が494年に洛陽に遷都した後には南朝を模して全面的に漢化政策が実行され、南朝の士大夫の服飾の特徴を持つ衣をまとった仏像作りが非常に流行した。これは仏教の中国化の典型的な例証である。

西暦550年に建国された北斉は、支配層の再鮮卑化と西域化の政治指向を持っていた。すると鄴城の仏像でもそれまで流行していた漢化の進行が止まり、インドのグプタ王朝で流行していた服装や装飾品の様式を大量に取り入れた。この様式は服飾が軽くて柔らかく、衣が薄くて体が透けており、装飾は少ないかなかった。この様式は後世に「曹衣出水」と賞賛された。

シルクロードは交易の道であると同時に、文化交流の道だった。当時の鄴城は政治制度、都市計画、文化芸術、建築彫刻などの面で西域地域と広範な交流があり、その影響を受けただけでなく、鄴城から発信された文化が東方の日本や朝鮮半島に直接あるいは間接的な影響を与えた。(構成 / 如月隼人



※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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