中国新聞社 2023年8月20日(日) 23時0分
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1951年に香港で生まれた劉香成(写真)が報道カメラマンの仕事を始めた場所は米国だった。劉は中国系カメラマンとして初めてピューリッツァー賞(報道部門)を受賞するなどで高く評価されるカメラマンだ。
1951年に香港で生まれた劉香成が報道カメラマンの仕事を始めた場所は米国だった。劉は中国系カメラマンとして初めてピューリッツァー賞(報道部門)を受賞するなどで高く評価されるカメラマンだ。中国メディアの中国新聞社はこのほど、劉香成の足跡や考え方を紹介する記事を発表した。以下は同記事の主要部分を再構成したものだ。
劉向誠は報道写真であっても、見る人が感情移入できる作品でなければならないと信じている。「感情のない写真はただの記録」になってしまうからだ。
こうした理念は、ジョン・ミリに触発された部分が大きい。劉はニューヨークの大学を卒業する前に、街頭にいる社会から疎外された人々を撮影した。「ライフ」誌のカメラマンをしていたミリは、劉のこの写真に感銘した。ミリは、劉をインターンとして「ライフ」に迎えた。最も偉大な視覚芸術家と言われるミリは劉に、見る人が常に共感し対話する作品こそが、不朽のメッセージを持つと語った。
劉は、当時の中国のイメージを生みだす影響があったフランス人カメラマンの写真を見た。最初は彼らが撮影した中国に興味を持ったが、しばらくしてフランス的な世界観による作品と気づいた。そして劉は、中国に戻ってみたいという考えるようになった。
劉は1976年9月、「タイム」誌の委任状を持って広州に到着した。最初に撮影したのは朝の街頭で運動をしていた老人だった。劉は79年にAP通信に雇われて、米中国交正常化後初の中国駐在カメラマンとなり、北京に赴任した。
劉香成は周囲のあらゆる人を撮影した。コカ・コーラを手にした軍服姿の少年、公園でファッショナブルに着飾った若者、スーツやウエディングドレス姿で結婚式を挙げるカップル、巨大な広告の下を歩く通行人――。さらに列車の中でビールを手にするニクソン、北京の大通りの長安街で自転車に乗るキッシンジャー、そしてベートーベンの第9交響曲の演奏で中国・中央楽団を指揮する小澤征爾などもだ。79年から81年にかけての西側メディアの中国報道のイメージの65%は、劉が形成したと評されている。
劉が中国をいったん去ったのは83年だった。劉は90年代初頭に小説家のパール・バックによる文章に衝撃を受けた。劉には「誇りを持ち、ユーモアを交え、真面目さと明るさの両方を兼ね備えた素晴らしいセンスで書かれており、古今の中国を正しく理解し、評価している」と思えた。
劉も同じことをしたかったのだ。劉は幼少期を福州で過ごし、香港で育ち、アメリカで学び、働き、さらに世界を旅した。劉は東洋と西洋の間には文化の溝があるだけでなく、長年にわたり信頼を得られる真のコミュニケーションや認識が欠けていることに気づいていた。
劉は95年に北京に戻り、タイム・ワーナー・グループの北京駐在首席代表になったた。劉は、それまでの自分は画像を通して情報を伝えていたが、今度は情報を伝えるプラットフォームを構築しようと考えたのだ。どちらも本質的にはコミュニケーションの可能性を促進する仕事と考えた。
重要な瞬間をとらえ、日常を切り取った劉の作品は、人々の心に深く染み入る特徴がある。劉は著名人のポートレートも多く撮影した。
彼はそのために、多くの先輩と深い友情を築いた。劉の30歳の誕生日には、中国の伝統劇である評劇の著名な俳優の新鳳霞(1927-98年)が劉のために桃の絵を描き、漫才師であり漫才の理論家でもあった侯宝林(1917-93年)が揮毫した、画家の黄永玉(1924-2023年6月)は劉に上海ガニの食べ方を教えた。劉は1983年に、故宮博物院内の太和殿前の広場で76歳だった溥傑(1907-94年)の写真を撮影した。このラストエンペラーの弟は、夕方の紫禁城で兄の幼少時代のことを語った。
劉は自分と同世代や若い世代の人の写真も多く撮影している。劉はいつも誠実なふるまいで被写体の警戒心を解く。被写体からは自分が注目されているという意識が消え、自然でリラックスしている一面を見せる。
劉が最も興味を持つことは常に、人としての視点から社会全体を観察することだ。劉は、「多くの写真家は一日中、フォトジャーナリズムとは何か、ドキュメンタリー写真とは何か、ヒューマニズム写真とは何か、芸術写真とは何かといったことを考えることに拘泥している。撮影とは何かを忘れているのだ」と語ったことがある。劉にとって撮影とは、その時代の中国において最も代表的な個人のイメージを得ることが目的だ。
2001年に北京五輪組織委員会が成立すると、劉はアドバイザーとして招かれた。劉は「カメラの言葉」を使って、中国の成長を語ろうと考えた。劉は広範囲にわたって画像を探し、収集し、最終的に88人の写真家による数千点の作品を採用して、424ページに及ぶ重厚な「中国:一つの国の肖像」という写真集としてまとめた。
劉は「歴史には非常に具体的な画面がある。その画面とは記録としての価値のほかに、(撮影した者の)観点を表現する。1枚の写真にはもちろんその力がある。すべてを沈殿させると、より大きな物語が見えてくる」と語った。
2010年の上海万博では、劉は妻と共に編集した写真集の「上海:偉大な都市の肖像」を発表した。この写真集では、貴重な歴史的写真や世界の個人コレクション、傑出した写真家の作品を通じて、現代の上海がどのように形作られたかを描いた。2011年の辛亥革命100周年には「壱玖壱壱:アヘン戦争から軍閥混戦までの百年の画像史」を編纂して、1850年から1928年の中国を視覚的に描き出した。
劉は「一帯一路」というテーマで仕事をしたいとも思っている。劉の考えでは、現代中国が真に大規模に国外に出るのはこれが初めてであり、中国が文化面でどのように各国と接するのか、異文化との接触からどのような状況が生まれるのかが、21世紀の人類にとって重要な経験と歴史になると考えている。
体力面でついていけるかどうかはわからない。「私は72歳で、100ポンド(約45.4キロ)の機材を持って走り回ることはできない」からだ。そこで、より多くの人々に参加してほしいと願っている。(構成 / 如月隼人)
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