中国の「黄金文明」は東西交流でもたらされた―専門家が殷代出土品を使って説明

中国新聞社    2023年6月27日(火) 22時30分

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黄金は世界各地で「貴い素材」として珍重されてきた物質だ。しかし極めて早い時代の中国は、ユーラシアの「黄金文化圏」には含まれていなかった。

金は世界各地で「尊い素材」として珍重されてきた物質だ。しかし極めて早い時代の中国は、ユーラシアの「黄金文化圏」には含まれていなかった。中国の黄金文化は東西の交流によってもたらされ、その後になって「中国現地化」の道を歩んだという。河南省鄭州市文物局局長などを務める顧万発氏は、このほど中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国の極めて早い時期の黄金文化について説明した。以下は顧氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

ホタテ貝の形に込められた古代人の世界観や死生観

河南省鄭州市文物考古研究院は、2021年6月から23年2月にかけて鄭州市の市街地で実施した考古学調査で、構造がはっきりして機能が完備した殷代(紀元前17世紀ごろ-同1046年)の貴族の墓地を発見した。これが鄭州の書院街墓地だ。現存する面積は1万8000平方メートルで、堀や通路、貴族の墓、さらには豚や犬、牛の骨や角が大量に出土した祭祀坑などが発見された。

墓で見つかった副葬品には、青銅器、金器、玉器などがある。黄金の覆面は、殷代中期のものとして初めての発見だ。

黄金の覆面はホタテ貝型だ。中国の古代人がホタテ貝の形にこだわったことには、いくつかの理由が考えられる。まずホタテ貝は下が四角で上が丸い。このことは「地は方形であり天は丸い」という認識に関係している可能性がある。

また多くの研究によれば、古い時代の人はホタテ貝が生気や復活に関係していると考えていた。ホタテ貝は浅海の土砂の下で暮らしている。まるで埋葬されて墓の中にいるようだ。しかしホタテ貝は生きている。人々は死者の顔を覆う面をホタテ貝の形にすることで、墓の中で生き続けていつか復活するという考えを示したのかもしれない。

考古学では、殷代は早期、中期、晩期の3段階に分けられる。鄭州で見つかった金の覆面は中期に属する。三星堆文化の金仮面が作られた年代は、殷で言えば晩期に相当する。炭素14の測定によれば、鄭州の金の覆面は三星堆の金仮面より300年ほど古い。

鄭州の黄金の覆面の特徴の一つが、目や鼻などの感覚器官を示す部分がないことだ。三星堆の金仮面には目や鼻がある。感覚器官のある仮面の多くは、呪術使いや祭祀者、聖人などのためだったと考えられている。

殷の力は現在の四川省にも及んでいた

現在の鄭州は殷代中期の都だった。すでに金細工を作る一定の技術と規模が備わっていた。このことは、中国にはさらに古い時代から金文化が存在したことを示す。三星堆の黄金文化は、鄭州に存在した黄金文化の後継者であり発展形だ。

殷の中心地は、現在の陝西省や河南省などの中原と呼ばれた地域だ。一方の三星堆文化の中心地は現在の四川省だ。ただし、両文化には密接なつながりがあった。三星堆文化の末期には、殷が三星堆文化の王朝に一定の支配権を持っていたと考えられている。三星堆文化の後期の遺跡からは、陶製や黄金製、あるいは青銅製の鳥が出土しているが、これは詩経にある「天命の玄鳥、降下して商(殷)を生む」の文句と関係すると考えられている。

古い時代には、自らと関係がないと考える神を祭ることはなかった。三星堆文化の王国、すなわち古蜀の王が殷の神祖を祭っていたことは、古蜀が殷を受け入れていた証拠であり、殷の王族の一員が、古蜀に常駐していた可能性もある。

中国では西からもたらされた「黄金文化」が独自に発達

世界的に見れば、黄金など貴金属で作られた仮面は権威や支配的地位、富、信仰などと関連している。もちろん、仮面は属する文化の一部であるので、文化が違えば比較的明確な違いも出現する。

例えば、エジプトのツタンカーメンの黄金の仮面を例に考えてみよう。古代エジプト人は太陽の光を信仰した。黄金は光を発す物質と考えた。だから、仮面など体を黄金で包むことは、太陽神の化身であることの象徴だった。

考古学研究の結果からは、副葬品として金が使われた事例はブルガリアのある部族の貴族の墓から多く発見された。少し遅れれた時代のものとしてエジプト、メソポタミア、古代ギリシャでも金製品が発見された。

現在のところ、中国で発見された最も古い金製品は、甘粛省玉門市の火焼溝文化遺跡で発見された耳飾りなどの簡単な装飾品だ。この金製品は紀元前2300年から同1000年頃まで中央アジアのステップ地域からシベリア南部にかけて存在したアンドロノボ文化の特徴を持つ。

つまり、中国はユーラシア大陸との交流の過程で黄金文化を吸収した。中国の初期の黄金文化は受容型であったが、時間の経過と共に他の多くの中国文化の要素と融合していった。殷代中期にはすでに中国独自の金箔技術なども加わり中国化した黄金文化が成立していた。

中国の黄金文化は殷代中期が重要な節目だった可能性がある。中国で黄金製品が出土したのは殷代中期までは基本的に、中国とユーラシア大陸の文化が融合した地帯だった。しかしその後は出土範囲が広がり、技術面でも模倣の段階から中国独自の要素を追加する段階に入った。現在までの考古学の知見によれば、この重大な転換は鄭州を中心に始まった。

中国文化で最も早い時期から珍重されたのは玉(ぎょく)だった。黄金文化が入って来たのは今から4000年ほど前だ。そして中国では玉文化と黄金文化が融合した。黄金文化が重要な伝統文化の一つとして中国に定着した背景には、東西の文化交流と相互参考の歴史がある。(構成 / 如月隼人




※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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