「楚の大鼎」が現代人に教えてくれること―研究と保管の当事者が語る

中国新聞社    2023年3月7日(火) 0時0分

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安徽博物院に収蔵されている紀元前3世紀につくられた「楚の大鼎」は、われわれに何を教えてくれるのだろうか。写真は安徽博物院の様子。故毛沢東主席がこの大鼎を見学した際の写真も展示されている。

安徽博物院が所蔵する戦国時代の「楚」で作られた大鼎(おおかなえ)は、同博物院の至宝だ。楚の幽王(在位:紀元前237年-同228年)の墓から1993年に出土したもので、高さは113センチ、口径87センチ、腹囲284センチで、重量は400キロだ。これまでに発見された春秋戦国時代の青銅器としては最大の円形の大鼎だ。安徽博物館などで文化財の研究や管理、関連文化活動に30年以上にわたって携わってきた徐大珍副院長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の求めに応じて、この大鼎が示す当時の楚国の状況や、日中戦争下にあって保護に当たった人々の努力について説明した。以下は徐副院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

交通の要にあった楚は中国北部の青銅文化を継承した

中国では殷時代(紀元前1100年ごろ-同771年)に青銅器の製造技術が高度に発展した。この鼎が作られた戦国時代(紀元前5世紀-同221年)も、青銅器時代が続いていた。青銅器の使用と祭祀、戦争は、この時代の典型的な特徴だ。青銅器は国家の政治権力の象徴だった。

現在の安徽省は当時から、中国の南北を結ぶ交通の要であり、現在の河南省や陝西省などの中原と呼ばれた地域と南部諸国を結ぶ重要な通り道だった。また、安徽省南部はよい銅鉱があり、中原王朝の青銅器生産にとって重要な原料供給地の一つだった。長江と淮江に挟まれた江淮地区は、古い時代には淮夷(わいい)と呼ばれた人々が住んでいた。中原王朝は銅資源を手に入れるために淮夷の諸小国と戦ったり、和議を結んだりした。このことで双方の文化交流が盛んになり、中原地区で高度に発達した青銅文化は、現在の安徽省地区にも強い影響を及ぼすことになった。

春秋戦国時代になると、江淮地区は大国が争う場所になった。さまざまな大国勢力が入れ替わりやってきたことで、江淮地区には中原地区以外の多くの文化も流入した。そのため、江淮地区の文化は多元的になった。また江淮地区の人々は、さまざまな文化を受け入れる包容性も得た。

江淮地区で登場したさまざまな文化体系の中でも、最も影響力が強かったのは楚の文化だった。楚の文化には、殷や周の文化の継承者の側面もあった。楚の文化が残した成果の中でも、例えば屈原(紀元前340年-同278年)の作品は、楚人ならではの幻想と激情、深い郷土愛に満ちあふれるロマン主義を示している。そして、青銅器も楚の文化の重要な構成部分だ。

楚文化が体現した楚人の政治文明、思想意識、宗教信仰、器物文化などのいずれもが、後世の漢代(紀元前202年-紀元220年)に極めて大きな影響を及ぼした。安徽省から出土した漢初の漆器や青銅器などからも、漢代の文化がが楚の文化的要素や気質を受けていたことが分かる。

楚の大鼎

大鼎が示す、滅ぼされた楚の民の「最後の意地」

楚の大鼎の胴部分は円形で、周囲に紋がつけられている。両耳と首部分の外壁には菱形の紋があり、、足の付け根には獣の首の紋を浮き出させている。また、口の周囲には12文字が刻まれていた。うち「鋳客」の文字には学界で2種類の解釈がある。一つは、他の諸侯国から来た職人がいたことを示し、戦国時代の職人が比較的自由な身分であったことを示すというものだ。もう一つは、職人を管理する下級官吏の存在を示すというものだ。

また、足1本の付け根と腹部の下部分には、それぞれ「安邦」(国をしっかり治める)の文字があった。楚の大鼎は巨大で、造形設計の至る所で力と勢いの完璧な結合を追求しており、極めて高い歴史と芸術、科学研究の価値を持つ。楚国は一時は強国になったが、結局はほろぼされた。楚の大鼎の「安邦」の二文字は、楚国が世を圧倒する大志を持っていたことを示すものだ。楚人の「最後の意地」を示しているとも言える。

戦乱の中にあって貴重な文化財を守ろうと懸命の努力

1937年には中国抗日戦争が全面的に勃発した。安徽省図書館の館長だった李辛白氏は、楚の大鼎を含む700点以上の楚器を緊急に中庭に埋めた。その後、著名な考古学者の李済氏の協力を得て、これらの文化財を南京に運び、さらに北京から運ばれてきた故宮の文化財とともに重慶に移送した。文化財はさらに四川省楽山まで運ばれて、戦争終結を待つことになった。

抗日戦争が終わった後、これらの文化財は南京に運ばれた。1949年に中華人民共和国が成立する直前には国宝が再び流失するのを避けるため、楚の大鼎は安徽省蕪湖に運ばれ、さらに52年には安徽省の省都の合肥に運ばれた。楚の大鼎はようやく、20年近い困難と流浪の日々に終止符を打った。

楚の大鼎は大きかったこともあり、流浪の歳月で傷だらけになってしまった。安徽省政府は1954年から55年にかけて大鼎やその他の出土青銅器を補修した。担当したのは青銅器修復の名手である金氏兄弟だった。楚の大鼎が現在、安らかに展示室に収まっているのは、無数の先人の献身のおかげであり、中華文化の伝承と不屈の民族精神の具体化だ。大鼎にある「安邦」の銘文にふさわしい状態になったと言える。

2014年12月13日には、南京大虐殺の犠牲者を記念するため、中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館の公祭広場に国家公祭鼎を永久に設置した。この鼎は楚大鼎を原型にしたものだ。

安徽博物館

西アジアなどより遅れたが、中国では青銅器文化が特異に発達

中国の青銅器文明には、世界各地の青銅器文明との共通点もあり、異なる部分もある。世界最古の青銅器は西アジアや欧州で発見されている。中国最古の青銅器は中国北西部の甘粛省馬家窯文化、斉家文化などの遺跡で発見された。

これかで発見された最古の青銅器や出土状況を比較すれば、中国の青銅器文明は西洋の青銅文明に比べて遅く発展したことが分かる。しかし西洋の青銅時代は基本的に単純で作りが粗雑だ。制作技法の種類も少ない。中国の青銅器づくりでは多くの技術が出現した。鋳造された時点で、造形はすでに復雑であり、さらに多くの装飾を施した。また、多くの青銅器には銘文が刻まれている。つまり中国の青銅器は、独自に高度な発達を遂げたと言える。

また、青銅器の使われ方について、中国の場合には国家権力と社会の階層の象徴になった。中国の青銅器の数と種類は、西洋と比較すれば圧倒的に多い。技術の発達や社会における重要性などからして、中国の青銅器は当時の中華文明の縮図といえる。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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