中国人はなぜ、その人のことを話題にしただけで相好を崩すのか―専門家が「三蘇」を語る

中国新聞社    2022年7月3日(日) 23時30分

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蘇軾は中国歴代の文人の中で、今でも人々に特に愛される存在だ。写真は蘇軾と父の蘇洵、弟の蘇轍を祭る「三蘇祠」。「三蘇祠」は彼らの旧宅だ。

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今から1000年近く前の北宋時代(960-1127年)に活躍した蘇軾(そしょく)という文人がいる。日本では「蘇東坡」と呼ばれることが多い。中国では蘇軾のことが話題になっただけで、なんだかよい心持ちになって微笑んでしまう人がいるという。いったいどういうことなのだろう。中国蘇軾研究学会副秘書長を務める戴路氏はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、蘇軾の特徴や人を魅了する理由を説明した。以下は、戴氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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■中華文明の復興期だった北宋時代、とりわけ光る「三蘇」の存在

中国を代表する文人の一人として蘇軾は特に有名だが、父の蘇洵(そじゅん)と弟の蘇轍(そてつ)も、極めて素晴らしい業績を残している。そのため、この3人を「三蘇」と呼ぶことが多い。

宋は歴代王朝のなかでも、とりわけ文化を重視した。歴史をさらに遡ると、唐代末期から宋が成立するまで、中国は大いに乱れた。宋が中国を再統一したことで、中華文化は復興期を迎えた。この時期を生きた「三蘇」が残した作品は、中国の歴代文人の中でも異例の多さだ。例えば蘇軾の創作期間は四十数年だったが、1800編あまりの文章、2700編あまりの「詩」を残した。今に生きるわれわれは、それぞれの作品を比較対照しながら、「三蘇」の世界により深く入っていくことができる。

「三蘇」はそれぞれが「周易」「詩経」「論語」などを研究した。漢代の賈誼や司馬相如、唐代の李白杜甫白居易などの文人についても、精緻な論述を展開している。そして、「三蘇」は当時の文壇の中心的な存在だった。「三蘇」を理解すれば、宋代の文化を読み解く鍵を握ることができる。

現在の四川省眉山市内にある「三蘇」の旧宅はその後、彼らを祭る「三蘇祠」になった。この地方は西蜀とも呼ばれるが、西蜀文化には一つの特徴がある。正統的な儒教は怪異なものを相手にしない傾向が強いが、西蜀文化は怪異なものをも追求する。また、儒教などが定める礼法は必ずしも尊重しない。このことでかえって、西蜀文化は異端をも包容することになり、哲学、政治学、歴史学、倫理学、文学、芸術などの人文分野で先駆的な境地に達した。

蘇軾は西蜀文化を最高の境地にまで押し上げた。読書の範囲は極めて広く、広い視野を持ちさまざまな考えを融合させた。「三蘇」は道士や仏教の僧侶も師とした。蘇軾は特に、青少年時代から仏教の知識と思想に親しんでいた。

■柔軟で包容力あり、何事も分け隔てしなかった蘇軾が大好きな中国人

正統的な儒教の立場に固執すれば、仏教本来の教えには容認できない部分も出て来る。中国ではそのため、儒教の立場からの仏教非難が起きた。仏教側からの反論もあった。

蘇軾は儒仏の争いや仏教内部の宗派同士の争いに反対した。それぞれの教えにはいずれも、すばらしいものがあると考えたからだ。このことからも蘇軾の考え方は柔軟で、包容力があったことが分かる。

蘇軾にはユーモアもあり天真爛漫だった。女性の立場も尊重した。身分の上下にはとらわれなかった。自分自身の立場として、道教の最高神である玉皇大帝にも寄り添うことができるし、生活力がなく救済施設に収容されている難民にも寄り添うことができると書いている。

昔の文人と言えば、農民などを見下していたイメージが強いが、蘇軾はそうでなかった。自分のことを「読み書きができる農民」と言い、庶民と打ち解けて交わった。自然に対する態度も同様で、奇抜な風景にも普通の風景にも美を見出した。

蘇軾は文人の例にもれず、科挙を受験した。22歳の時には弟の蘇轍と共に進士になり官界に進んだ。中国文化史の特徴の一つとして、高級役人として仕事をしつつ、文化面で大きな業績をあげた人物が珍しくないことがある。蘇軾もそんな一人だった。ただ蘇軾の場合、政策をめぐる大きな争いに巻き込まれ、事実上の流罪になるなど極めて苦しい経験をしている。

しかし蘇軾はそのような状況の中で、自分の思想をさらに深めた。蘇軾は、仕事の面で認められるかどうか、身分の浮沈、個人の栄辱は人としての完全性には関係ないとの考えを打ち立てた。

蘇軾は没後も、中国人に親しまれる存在であり続けた。中国には「蘇軾の話題になると、人は心が暖かくなり相好を崩して笑みをもらす」との言い方がある。苦しい境涯にあっても超然として達観し、真の純粋さを失わなかった蘇軾に、人々は心の安らぎを感じるのだろう。

■日本など漢字圏だけでなく欧州でも注目、「現代の精神を備えた古人」の評も

眉山の「三蘇祠」

蘇軾ら「三蘇」はまず、東アジアの漢字文化圏に影響を及ぼした。朝鮮半島の文人は、眉山の「三蘇祠」にまでやってきた。日本では鎌倉時代末期から室町時代にかけて五山文学が栄えると、蘇軾の詩歌には日本式に読むための訓点がつけられた。日本ではその後も蘇軾の作品の選集が多く出版された。

20世紀になると、西洋でも蘇軾の作品が徐々に認められるようになった。蘇軾の研究も極めて豊富になった。20世紀の初頭から半ば過ぎまで盛んに活動した文学者であり研究者でもあった林語堂(1895-1976年)は蘇軾を「現代の精神を備えた古人」と評した。蘇軾は「天下の患いで最悪なのは、名目上は何事もなく治まっているが、内実は不測の憂いがあることだ」などとも論じている。今日の国政運営にとっても意義ある言葉だ。

フランスのルモンド紙は、西暦1000年前後に生きた偉大な人物を取り上げる「ミレニアムの英雄」という記事で、世界各国の12人を選んだ。蘇軾は中国人として唯一、選ばれた。同紙のランジュリエ副編集長は蘇軾を選んだ理由は「自由な魂を持っていたことだ」と説明した。

自由な魂とは開放的で包容力があり、人間性を尊重し、文化の多様性を認めるものだ。蘇軾の言葉は現代を生きるわれわれに、異なる文化圏の人々と付き合っていく上で基本的に必要なものが何であるかを示唆してくれる。(構成 / 如月隼人

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