〈新疆の世界遺産7〉高昌故城:天山南麓の政治・経済・文化・軍事の要衝

小島康誉    2022年3月19日(土) 15時20分

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高昌故城の一角、遠景は「西遊記」にも登場する火焔山(小島ほか編『新疆世界文化遺産図鑑』日本僑報社より)

高昌故城は「亦都護城」(突厥語で「王城」の意)とも称され、天山山脈の東部分南麓のトルファン(吐魯番)中心から東約30kmの三堡郷に所在している。前漢初期には車師国に属し、以来、前漢・前秦・後涼・西涼などの支配下におかれた。448年高昌が独立建国し高昌城が国都となった後に、640年唐王朝が西州を置き、天山南麓の政治・経済・文化・宗教・軍事・交通の要衝であった。866年には回鶻が支配し高昌回鶻と称した。12~13世紀に西遼・元朝の属国となり、14世紀頃には放棄された。

若干変形した方形を呈し、東西約1.6km・南北約1.5km。周囲約5.5km、面積約2平方キロメートル。城壁の最高は約11m。外城・内城・宮殿の3部分で構成され、南大仏寺・東南小寺・住居房など多数の宗教施設と住居遺構が残存している。日干し煉瓦と版築で築かれている。仏教・マニ教・景教など関連の壁画・塑像や漢語・サンスクリット語・ソグド語・回鶻語などの文書などが出土している。1961年第1次「全国重点文物保護単位」に指定され、保護が行われている。ご参考:小島ほか編『新疆世界文化遺産図鑑』(日本語版・本田朋子訳・日本僑報社2016)

東南小仏寺とTVクルー(撮影:筆者)

高昌故城を語る時、玄奘三蔵(602-664)との仏縁は外せない。仏教の核心を求め国禁を犯し629年長安(西安)からインドへ旅立った玄奘(三蔵と尊称で呼ばれるのは帰国後)。高昌国王の麴文泰は「インドを目指している僧が東隣の伊吾(現・新疆ハミ)まで来ている」と聞き、別ルートを計画していた玄奘を熱心に招いた。国王に『仁王経』を説き、約2カ月滞在。なおも引き留める国王に帰路立ち寄り3年間留まると約し出発。国王は20年分の費用として黄金100両・銀銭3万銭・綾絹500疋などを布施し、少年僧4人・馬30頭・人夫15人もつけた。通過する24カ国の王への依頼状と貢物も託した。

玄奘法師が高昌国王に『仁王経』を説いたと伝わる講経堂(撮影:楊新才氏)

クチャを経て天山山脈を越える時は「氷を寝床に寝て、7日間の山越えで凍病死した者3、4人。牛馬も多数失う」(『慈恩伝』)など難渋しつつインド到達。ナーランダ寺などで学び、大量の仏典もえて帰国の途に。途中で高昌国は滅び麴文泰も亡くなったと聞き、近道の西域南道を経て645年長安帰着。16年余におよぶ大修行であった。以来、皇帝の援助の下、組織的翻訳を行い、1335巻という膨大な経典の漢訳を成し遂げた。ひいては東アジア諸国の文化形成に大きな役割を果たした。「玄奘と一緒に住み一緒に食べ一緒に礼拝し兄弟となった」(「百度百科」)高昌国王の加護が無かったら、玄奘はインドへ辿り着けなかったかも知れないと言われている。高昌国王麴文泰は仏教大檀越として高く評価されるべきであろう。

天山山脈のどの峠を越えたかは2説ありベデル峠(別迭里4269m)が有力。ベデル峠や高昌故城へは役所広司氏をテレビ東京の番組で新疆政府の許可を取り案内したことがある。高昌故城の近くにはアスターナ古墳・火焔山・ベゼクリク千仏洞があり、観光コースである。

■筆者プロフィール:小島康誉


浄土宗僧侶・佛教大学内ニヤ遺跡学術研究機構代表・新疆ウイグル自治区政府文化顧問。1982年から新疆を150回以上訪問し、多民族諸氏と各種国際協力を実施中の日中理解実践家。
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