中国人のママが来て、日本人の僕が思うこと

大串 富史    2022年3月14日(月) 21時50分

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ママのための家庭用冷凍庫と、丸ごとの鶏を骨ごと切断する専用包丁。ここ中国でどんどん中国人化する僕の、このガチで受けて与える関係は終わりそうもない。

中国人のママが、ついに我が家に来た。ママというのは僕の中国人の妻の母親のことなのだが、僕らの結婚の時にママから直々に「これからはわたしのことをママと呼びなさい」と言われ、それ以来ずっとそう呼んでいる。

ついに我が家に来たというのは、僕たちが中国・青島の近くに引っ越してきて4年半が経ち、娘6人(姉の1人が末期がんで亡くなったため今は5人)で順繰り家に引き取り世話をしてきた、その順番がようやく回ってきたからだ。

この娘たちが順繰り家に引き取って世話をするというのは、4つほど理由がある。1つには中国の年金というのはお小遣い程度(農村の養老金は1カ月200元少し、日本円にして3000円程度)でしかないから、老後は子供が年老いた親の面倒を見ると相場が決まっている。2つには中国では日本以上に親孝行こそ人の義務と相場が決まっている。

3つ目として介護していた夫(つまり僕の義理の父親)が少し前に老衰で亡くなったため、一人で農村の自分の家にいてもやることが何もなくなってしまった。さらに4つ目として既に81歳で足を悪くしてもいるため、娘たちとしては当然ながら心配でたまらず、一人で生活など、とてもではないがさせられない。

それで2月1日の春節から数えて3日目の2月3日に、ママのいる農村からママと共に親戚一同が我が家にどっと押し寄せた。

子どもも含めれば総勢20人前後で、農村から丸ごとの鶏数羽をはじめ肉やら野菜やら卵やら牛乳やらを多量に持参し、同時に階下の個人用屋内駐車スペースに置けるママのための家庭用冷凍庫(アイスクリームを売る時に使うあれとほぼ同じ大きさの冷凍庫)まで持って来てくれるという周到ぶりだ。

実を言うと9年前に中国人の妻と結婚する時、僕は知人らからこの中国の大家族制度について既に聞かされていた。もっとも東京オリンピックや大阪万博に代表されるような僕の親の世代は、正月2日に僕ら子どもたちを含む20人前後の親戚一同で、同じように祖父母の家に集まり会食していたから、同じと言えば同じような感じではある。

だが今回は会食ではなく同居である。しかも中国人のママとの同居であって、当然いろいろと思うことがある。

たとえば朝6時になると僕は朝食の支度のために起きて台所に行くのだが、ママがほぼ同時に起きて来て電気ポットのお湯を沸かす(結果として床やテーブルにこぼれた水やお湯は僕らが拭く)。妻がママ用の仕事ということでお願いしている花茶(ジャスミン茶の類ではなく健康に良いものを全部入れて煎じて飲む健康茶)も淹れる。

これは妻に言わせるとママがじっとしていられない性分だからなのだが、僕が思うに、どうもそれだけではなさそうだ。

自分がやりたいことをやらせてほしいとか(自分の農村の家で自分で花茶を入れることはない)、何か人の役に立ちたいとかいうのも(淹れてしまえばもう満足で僕らが飲まなくても全然気にしない)、こうした行動の十分な説明にはならない。

それで最近になってようやく、ママは周りの人間と一体感を得ることにより生活に意義を感じたいらしいのだと分かってきた。

食べ終わった食器や食べ残しの入ったお椀を足を引きずりつつ台所までかなり危なげに持って来るのも同じで、僕らがにっこり笑ってそれを受け取って初めてこのルーチンは完結する。皿も割らず残りもこぼさず無事に運び切って完結、なのでは決してないのだ。

同時に、この一体感を得んがためのママの奮闘を何でも許すわけにはいかないということも分かってきた。たとえばちょっと目を離すと、持ってきた汚れた食器をスポンジではなく手でぬぐい、洗剤を使わず水でさっとゆすぐだけで済まし、しかもその手を台所用ふきんでふいてしまう。

その程度のことは上下水道がない(つまり水を極力無駄にしないイコール衛生は二の次という)中国の農村の生活について知っている日本人の僕にもまあ違和感はないのだが、上下水道も電気温水器もある都市生活者の僕らの家でそれをされても困ってしまうので、僕がするから大丈夫とたしなめて、毎回ルーチンを完結させている。

これは余談だが、「あんたはメガネのつるの跡が顔に残っているからメガネが小さいんだ、取り換えなさい」という前後の脈絡のない突然のアドバイスなども、まあ笑ってやり過ごすしかない。そうこうしていると、ママもようやくというか、僕が中国人の自分の夫や息子ではなく日本人の婿であることに改めて気が付いてくれる。

だがそれとて、ほぼ自動的というか本能的というか、なんとか僕とも一体感を得ようとする別の試みを断念させることはできない。

それはつまり、あくまで北京官話(中国語で言うところの普通話つまり標準中国語)を話そうとする僕に、それでも方言で話しかけ、僕に方言を話させようとする試みである。

たとえば台所で食事を作っている僕のところにママが来て、「あるもの」が必要なのだと言う。

「ママ、何が必要なの?」と中国語で話しかけると、「ヤー!」と答える。「ヤー?それって何?」「ヤー!」。これでは全く会話が成り立たないにもかかわらず(しかも僕の中国語が限定的ではあるが分かっているにもかかわらず)、あくまで「ヤー(山東省の方言で、塩のこと)」で通そうとする。

別の時には「ター!」と言うので何かと思ったら「チータン(またはジーダン)」つまり卵だったので、「ママ、だったらチータンって言ってよ」と答えると、「だから、ターはチータンのことなの!」と言い張り、譲る気配が全くない。

その一方で、ママが中国人の僕の妻と(方言の)読み書きの勉強をするのに参加させてもらった時には、もっと驚かされた。

僕の小学校2年生になるハーフの娘もそうだったが、中国人は小学校に上がるが早いか、まず真っ先にピンイン(ローマ字を使った発音記号)を叩き込まれて北京官話を教え込まれる。

だが81歳のママは、ローマ字なるものをそもそも受け入れられないし新たに覚えることもできない。かといって非識字だから同じ音の漢字を並べて覚えることもできない。ではどうするのかというと、覚えたい漢字と同じ音の漢字を表す絵を一つ一つ描いてもらって、その絵を見ながら漢字を(というか絵を)読んでいた。

そんな中国人のママが来て、日本人の僕が思うこととは何か。

人間にとって言語の壁というものは本当に越えがたい。前にも引き合いに出したバベルの故事ではないのだが、すこぶる野心的で頑固極まりない人々でさえ言語の壁の前では無力である。だから81歳にして読み書きを学ぶママ(と中国人の僕の妻)には、(たとえそれが一体感を得たいがためのものであったとしても)エールを送らずにはいられない。

同時に中国語を学ぶ日本人の皆さんにもこの機会にエールをお送りしたいのだが、趣味ではなく中国現地での実生活で中国語を使おうと思っている皆さんには、北京官話の勉強のあとに恐らくは方言の聞き取りというステージが控えている(それが分からないと生活できないことさえある)ことをお伝えしたい。

しかしもっと強く思うのは、人というのは誰しも一体感つまり帰属意識が必要で、それを家族に求めるのは当然の帰結なのだと妙に納得してしまう。

別の言い方をすれば、そのような一体感また帰属意識は家族またはほぼ家族のような関係の中だからこそ初めて得られる。ガチに受けて与える関係があってなんぼだから、こればかりはお金を出して買えるような代物ではない。だから、家族またはほぼ家族のような友人に囲まれて人生を送る人は、世界中のどこにいても何歳になっても、本当に幸せだ。

ところでここ数日、ママは朝の6時前に起きてくるようになった。農村の自宅では朝の4時起き(日の出と共に起床する)も普通だから、今度はこの点でマウントいや違った一体感を得たいのだろう。

結果として前日の夜にZoomミーティングで慌ただしかった僕らがポットにそのままにしておいた花茶の残りを、中国の習慣でお茶もお茶がらも全部一緒にゴミ箱にぶちまけてしまう(中国ではゴミ箱が水やお茶をそのままぶちまけられる便利な道具となっている)。

それで僕も動揺してしまい、作っていたスープに醤油ではなく間違って黒酢を入れてしまう(中国では酢は黒酢と相場が決まっているので、急いでいると見分けがつきにくい)。

すると取り乱した僕の中国人の妻が、あと2~3年の命なんだから(内視鏡手術で肺がんの第2ステージであることが分かり、分子標的薬を飲む補助化学療法を始めている)どうか私に親孝行をさせてくださいと言うので、親孝行はもちろん大賛成だよと請け合う(妻のストレスを思うと、薬を飲み終わってもいないのにそんなこと言うもんじゃない!とはとても言えない)。

そんな慌ただしい中、小学校2年になるハーフの娘に朝の支度をさせ、食事をさせ、一緒に本を読んでから、学校に送り出す。

小学校低学年の子どもと病人の妻と「ママ」の3人とそれぞれ「一体」となって日々ルーチンを終わらせるのだから、僕は本当に幸せ者なんだと思う。

だから昨日の夜もミーティングが終わって少し疲れてはいたが、丸ごとの鶏を専用包丁(家庭用の斧のようなもの)でさばいた(骨ごと切断する)。あるいは、いずれ生きた鶏を絞めて羽毛をむしるという次のステージに進むことになるのだろうか。日本人の友人が笑いながら言う、「どんどん中国人化してますね」。

だから、中国人のママが来て日本人の僕はますます思う。

ここ中国でどんどん中国人化する僕の、このガチで受けて与える関係は終わりそうもない。自分自身がまだ元気なうちは終わらせるつもりもないし、終わらせたくもない。

■筆者プロフィール:大串 富史

本業はITなんでも屋なフリーライター。各種メディアでゴーストライターをするかたわら、中国・北京に8年間、中国・青島に3年間滞在。中国人の妻の助けと支えのもと新HSK6級を取得後は、共にネット留学を旨とする「長城中国語」にて中国語また日本語を教えつつ日中中日翻訳にもたずさわる。中国・中国人・中国語学習・中国ビジネスの真相を日本に紹介するコラムを執筆中。

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