清朝宮廷にとって重要な意味を持ったスケート―専門家が語る当時の状況

中国新聞社    2022年2月16日(水) 23時40分

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中国で伝統競技としてのスケートが完成されたのは清代だ。写真は、清朝時代に描かれた当時のスケートの様子を示した「氷嬉図」や、現代における再現の風景。

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中国で伝統競技としてのスケートが完成されたのは清代だ。中国国家図書館古籍館の任●霏副研究館員(●は日へんに「失」)はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国の中国の伝統的なスケートと、それが清代に完成された原因などを説明した。以下は任副研究員の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

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■清朝開祖ヌルハチの宮廷貴族は男女を問わずスケートに熱中

スケートに相当する中国の伝統競技は「氷嬉(ビンシー)」などと呼ばれる。中国の北方民族が冬の生活の必要から編み出した技が原点だ。清朝の開祖であるヌルハチ(在位:1616-1626年)の宮廷ではスケートが盛んだった。ヌルハチが凍った川でスケート大会を開催し、太子らを引き連れて出席した記録もある。

ヌルハチの宮廷には漢族やモンゴル族の貴族もいた。それらの多彩な民族の人々が、男も女もスケート競技に参加した。競技が終われば氷上にむしろを敷いて宴会が催された。宮廷でのスケートには娯楽の性格があった。

ヌルハチの後継者となったホンタイジ(在位:1626-1943年)は1642年1月8日に氷上での蹴鞠(けまり)の会を催している。この時には来訪していた朝鮮の昭顕世子と鳳林大君も観覧した。この氷上の蹴鞠はその後も娯楽として継承され、外藩の使いが観覧することも増えていった。

■北京ではスケート競技に「フィギュア」の要素も追加

清軍は1644年に長城を突破した。ただちに北京を制圧して都に定めると(清の入関)、氷上の娯楽が北京に持ち込まれることになった。氷上の競技は「搶等」、「搶球」、「転竜射球」の3種に大別された。

「搶等」とは今で言うスピードスケートだ。出場者は爆竹の音とともにスタートし、ゴールへの一番乗りを目指す。「搶球」は氷上のラグビーだ。出場者は釘のスパイクがついた靴を履く。それぞれ10人からなるチームが対戦し、先発選手と交代要員がいた。この「搶球」は清朝の支配民族だった満族の古い競技が長い年月のうちに少しずつ整えられたものだ。

「転竜射球」は北方民族の伝統である騎射と中国の宮廷で演じられていた雑技(アクロバットなど)を結合させた競技だ。乾隆帝(在位:1735-1796年)が考案したものとされる。

満族は八旗と呼ばれる8集団で構成されていた。「転竜射球」の出場者はそれぞれの「旗」ごとのチームになって、まずは自らの旗を押し立てて竜の姿をなぞるようにらせん状の軌跡を描いて滑る。氷上にはゲートが設けられ、旗手に続いて滑る射手はゲートの前を通過する瞬間に、ゲートからつるされた球形の的を矢で射る。

各チームには旗手や射手とは別に演技者がいて、氷上でのぼりを立てたり楽器を奏でたり、雑技を披露したりする。演技を披露する点で、フィギュアスケートの要素があると言える。

射撃の部分は北方民族の伝統に由来するもので、雑技は中国の宮廷の古くからの伝統だ。「転竜射球」はその両者を融合させた競技だった。

■スケートは「自己アイデンティティー」を再構築する手段だった

康熙帝(在位:1661-1722年)から乾隆帝までの時期は清の全盛期だったが、清朝の衰退をもたらす要因が出現し始めた時期でもあった。西洋文化の影響が生じる一方で、満族の古くからの風習が衰退していったのだ。

西洋文化の衝撃により、清朝は王朝と国家について改めて考え始めた。そして、伝統の中に文化的資源を見出し、王朝と国家の「自己アイデンティティー」を再構築しようとした。このような背景があり、「氷嬉」は乾隆10年(1745年)に「国俗」と公式認定され、清朝宮廷の重大な慶祝活動の一つになった。

「氷嬉」は、中国の古くからの思想である「礼」や「楽」にも結び付けられた。清の諸制度を総括した「清朝通典」の中で、「氷嬉」は「礼典」と「楽典」の2カ所で取り上げられている。

「礼」とは社会の上下関係や秩序と反映させるもので、「楽(音楽)」とは、秩序ある中での調和を示す。「氷嬉」が「礼典」と「楽典」の両方で取り上げられたことは、清代にあって「氷嬉」とは、階級の秩序を反映するものであると同時に、秩序の中にある調和や包容性を示すものと考えられたことを意味する。

清朝が「氷嬉」を重視したことは、西洋文化の到来に対する一種の「応酬」だが、外からの衝撃によって受け身の姿勢で発生したものではなかった。それは、王朝内部の制度変革の規律に従って生じた現象だった。

清朝は儒教文化を踏襲した上で礼制を改造した。この方式が広く承認されたからこそ、清朝の領土内で暮らす人々に比較的安定した共通意識が形成された。人々は伝統文化を「自分たちのものだ」と認識した。その伝統文化は固定されたものではなく、融合の中で絶えず新たな内容が追加されていった。(構成 / 如月隼人

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