<コラム・莫邦富の情報潮干狩り>人々を感動させたあの若い母親に思う

莫邦富    2021年2月8日(月) 14時50分

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春節が刻一刻と近づくなかで、中国のSNSは、1枚の写真の被写体である人物の身元が判明したというニュースに沸き立った(写真:新華社)。

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節(旧正月)が刻一刻と近づくなかで、中国のSNSは、1枚の写真の被写体である人物の身元が判明したというニュースに沸き立った。

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■中国の若い母親に日中から感動の声

2010年1月30日、この日から中国全国でこの年の春節特別輸送期間を意味する「春運」がスタートした。新華社通信の記者周科氏は江西省省都南昌市の南昌駅広場で次のような写真を撮った。

右腕の中にいる赤ん坊を抱えた若い母親は、体を曲げて巨大な荷物を背負って、左手に持っているリュックサックを地面につかんばかりに引きずりながら、駅の方向へ走っていく。大変ななかで、頭を上げて進むこの若い母親の顔は赤くつやつやしていて、大きな目はしっかりと前方を見つめていた。

運命に負けない意志と果敢に行動する生命力にあふれるこの写真は、「坊や、お母さんと一緒に家に帰ろう」とキャプションをつけられ、当日、配信された。配信後、人々の心のひだに触れたこの写真は、数百のウェブサイトや新聞に選ばれ、社会の隅々から大きな反響が巻き起こった。翌年の2011年、同写真は年間中国新聞撮影金賞と第21回中国新聞賞を受賞した。

「心を揺さぶられ、いろいろと考えさせられた写真でした」

「肩に担ぐのは生活であり、懐に抱くのは希望である」

「お母さんになってからは、このような写真を見る勇気はなくなりました。見ると涙がこらえられなくなる」

と読者から非常に高く評価された。

それから11年間、この写真はネットやSNSで絶えずシェアされ、各メディアに転載され、リツイートされ、「春運の表情」ともなっている。春運になると、人々はいつもこの中国の母親を思い出す。また母の日にも、SNSでこの写真と母親への愛を語る内容の投稿があふれる。

実際、私も14年5月14日深夜に、母の日に遅れた投稿としてこの写真をFacebookにアップし、次のような文章を投稿した。

「この写真をぜひよく見つめてみてください。そして母親の偉大さを一緒に再認識しましょう。母の日(その年は5月11日)にアップしたかった写真ですが、仕事に追われてアップできませんでした。締め切りの原稿をようやく出した今、この1枚をアップして寝ます。世の中の母親に、そして中国の母親に、私を育ててくれた母親に、そして今や母親になっている私の多くの友人に、最敬礼を捧げたい!母親は偉大だ!」

この投稿は私のFacebookの投稿のなかでいいねをもらった数が5本の指に入っている。関心度の高さが証明された。

小城真志保という方が次のようなコメントを残してくれた。

「この様な方々を8年の中国滞在期間中にたくさん拝見しました。この写真から読み取れるのは、まだ彼女は20代前半で子供と共に生き抜いてみせるという強い意志が感じられる事。 でも若いからか、薄ら泣きたいという表情も。荷物の量からして、田舎から生活道具一式をもって大都会に友人、知人をつてに仕事を求めてやってきたのでしょう。 何故なら、帰郷するならこの荷物は両親や兄弟へのお土産でしょうから。 丸一日近くあまり眠らずに荷物を見張りながら、子供を抱っこして列車に揺られてきたのでしょうね。 下手したら座ってないかも知れません。 早く肩にくいこんだ重い荷物をおろして、赤ちゃんと一緒にぐっすり寝かせてあげたいです」

このコメントを読んだ私はいまでもぐっとこみ上げるものがあった。

Ryoko Itoさんという方も考えさせられるコメントを書いた。

「母親の立場から見ると、とてもつらい写真ですね…でも、この人は自分のことをかわいそうだとか思ってないと思います。目の前のことに必死で…そして、世界中の、生きる目的を探せずにふらふらしている若者よりは幸せだと思います」

石井明裕さんからはこう指摘された。

「胸の、熱くなる、ステキな写真ですね、この、気持ち忘れては、いけませんね。どの国の人も……」

■あの母親と記者が再会

世の中の反応に驚いた周科記者はこの11年間、ずっとその母親の連絡先をもらっていなかったことで深い後悔の念に駆られ、多くのネットユーザーやフォロワーから次々と送られてくる関連情報を頼りに、辛抱強い身元探しの作業を始めた。多くの人物写真を比較しながら、ようやく11年前の被写体であったこの若い母親の身元が突き止められた。バム・ユブム(漢字は巴木玉布木)というイ族人で、今は32歳。

今年の春節を前に、四川省涼山イ族自治州越西県瓦岩郷桃園村で、ようやく11年前に自分のカメラに収めた若い母親と出会い、いろりを囲んで踊る火の炎を見つめながら、再会の喜びを語ることができた。

バム・ユブムさんはやや痩せてはいるが、11年前の写真と同じように、髪を丸めたままで、明るく笑う。目も依然として明るく輝かせている。歳月の移り変わりはそれほど影を落としていない。

周科記者から当時の写真を手渡された時、彼女は大いに驚いた。学校に通っていなかった彼女は、自分がこんなに知られていることはまったく知らないでいた。

バム・ユブムさんが暮らす一帯は通称では「大涼山」と呼ばれ、中国国内でも屈指の貧困地域だ。山々に囲まれたこの地域の人々は、わずかな段々畑で作ったトウモロコシ、ソバ、ジャガイモなどを生活の糧にしている。バム・ユブムさんは07年に長女が生まれたが、たまに節約できた小銭で米を少しばかり買ってきて、トウモロコシ粉と混ぜて栄養食として娘に与える生活を送っていたのだ。

09年、次女が生まれた時、バム・ユブムさんはこのままだと、自分の子ども時代が繰り返されてしまい、子どもたちが大きくなっても自分のようにこの山々に囲まれた小さな世界から永遠に出られないのではないかと恐れた。

そこでバム・ユブムさんは、出稼ぎに行こうと大胆な決断を下した。「出稼ぎなら、月に500~600元(約8100~9800円)は稼げるだろう。家で畑仕事をするよりはましだ」と思ったからだ。

生まれて初めて大涼山を出たバム・ユブムさんが見つけた最初の仕事は、南昌市にあるレンガ工場でレンガを運ぶことだった。工場では娘を背負ってレンガを運んでいた。娘が肩で寝てしまった時は、横に置いて、自分は引き続き働く毎日だった。

読み書きはできないバム・ユブムさんは、共通語も話せなかったので、列車の切符も同じ村の出稼ぎ労働者に代わりに買ってもらったのだ。ネオンの下の看板や道端の標識など、周辺のすべては、彼女は丸暗記で覚えるしかできなかった。普段はどこにも行かない。睡眠の時間を除いては、出勤と育児の繰り返しで、レンガ工場の中の世界は彼女のすべてだった。こうしてレンガを運ぶ日課を繰り返しながら、共通語を少しずつ覚え、見知らぬ社会に溶け込もうと努力した。それまでは粉ミルクやオムツを見たこともなかったから、外の世界は、バム・ユブムさんにとっては常に新鮮だった。

10年1月30日、南昌駅で撮影されたのは、ちょうど南昌での5カ月間の出稼ぎ労働者の生活を終え、大きな荷物を背負い、次女を抱いて春節のだんらんのため大涼山の実家に急いで帰ろうとした時だったという。

あの日の朝、バム・ユブムさんは大小二つのリュックサックを持って、娘を抱きしめて寮から南昌駅に駆けつけ、それから1泊2日の列車の移動で成都に到着した。成都では15元(約240円)で小さな格安旅館で1泊して、さらに14時間、列車に揺られながら越西県に到着した。県の中心部から大涼山の家にようやくたどり着いた時は、すでに深夜だった。この帰省の旅はまるまる2泊3日も費やしたのだ。

南昌駅の写真を見ながら、バム・ユブムさんは当時のことを思い出した。あの大きなリュックサックの中には布団や衣類がいっぱい入っていた。手に持っていたショルダーバッグの中は、インスタントラーメンやパン、オムツなどだった。「あの時、自分が背負っていたものはあまりにも多かったが、移動中に人々が親切に手伝ってくれた」とバム・ユブムさんは当時を振り返って話した。

しかし、残念なことに、山間地帯で医療環境に恵まれなかったせいか、手に抱えて故郷に連れて帰った次女は帰宅後半年も経たないうちに病気で亡くなった。それ以来、バム・ユブムさんも出稼ぎに行っていない。11年には第3子も生後10日で亡くなった。幸いなのは、13年以降、出産した3人の子どもは国から医療・教育面での資金援助が受けられたから、全員、県の中心部の病院で生まれた。現在、長女は中学1年生で、次女は小学1年生、末子は息子でまだ幼稚園に通っている。特に次女は学校の成績がよく、村民からも褒められているという。

バム・ユブムさんも出稼ぎ労働者の生活をやめ、今は現地でタバコの葉などを栽培するようになった。昨年、一家の年収は10万元(約160万円)を超えた。新築したばかりの家は鉄筋コンクリート構造だ。

「雨漏りのしない家に住むのが、子どもの頃からの夢だった」とバム・ユブムさんは無邪気に笑いながら、周科記者にさらに、「どんなに生活が苦しくても、私たちは前へ進まなければならない」と語った。

■20年前に上海で出会った姉弟

11年前の写真の被写体の若い母親とのその再会に関する記事を読み終わった私は、思わず約20年前に上海で出会った二人の見知らぬ若い出稼ぎ労働者姉弟に思いを寄せた。

2002年12月14日付朝日新聞朝刊に、この出会いの一部始終を記録した。この「ああ、一皿の焼きそば」と題するコラムをここに再現したい。

「上海市雲南路(ユンナンルー)。グルメの街として有名だ。その一角にある薄汚い小籠包(シャオロンバオ)の店を何度か訪ねたことがある。安くておいしい庶民の味にひかれたからだ。メニューはいたってシンプルで、小籠包と、湯葉のスープ、上海風焼きそばしかない。腹いっぱい食べても10元(約150円)しない。

この店で、農村からの出稼ぎらしい姉弟に出会った。20歳そこそこの姉は、遅れてやってきた10代半ばの弟を見ると、頭をなでながら『仕事は疲れる?ふだんは腹いっぱい食べている?』と尋ねている。

あどけなさの残る少女のような目には愛情があふれている。上海風焼きそばが運ばれてくると、弟に薦めた。『おいしいよ。お姉ちゃんは昨日給料をもらったの。今日はいくら食べてもいいのよ』

弟がほおばる。姉は弟を飽かず眺めている。『仕事のあとに勉強している? 勉強しなきゃだめよ。知識を重んじる世の中に変わったんだから』と諭すようにささやく。

焼きそばは、みるみるうちになくなった。姉はもう一皿注文した。新しい皿に山盛りになった焼きそばを食べかけた弟が気づいた。『お姉ちゃん、ぜんぜん食べてないよ』『ううん、待っている間に食べたの。おいしかったわ』

私はその答えに驚いた。私より後に来た彼女が、何も注文せずに弟を待っていたことを知っていたからだ。

『でも、もう少し食べて。おいしいよ』と弟が甘えるように薦める。『じゃぁ、頑張って食べてみる。おなかいっぱいだけど』。そう答えた少女の箸(はし)には、ほんの2、3本の焼きそばしかぶら下がっていなかった。

2010年の万博開催が決まった上海。この大都市の底辺では、こんな姉弟のような出稼ぎ労働者が懸命に働いている。故郷とは10倍もの収入格差がある街で、たった数元の焼きそばを大事に、大事に、食べながら。」

数えてみれば、お腹を空かせて弟を待っていたお姉さんはいまやもう40代だろう。お姉さんに甘える弟も30代半ばになると思う。写真を撮らなかった私はこの二人の姉弟を探し出すすべもない。今年の春節は二人は中国のどこでだんらんするのだろうか?住む家も雨漏りのしない新居となったのだろうか?子どもも生まれただろう。元気に育っているだろうね。

上海では、いや中国国内のどこに行っても、10元で小籠包、湯葉のスープ、上海風焼きそばで腹いっぱい食べられるところを探し出すのはもう無理だろう。二人の姉弟のような、バム・ユブムさんのような、千万人単位で数える出稼ぎ労働者の皆さんは元気で暮らしているだろうね。

私たちの誰も、「どんなに生活が苦しくても、前へ進まなければならない」のだ。

2014年、Facebookにアップされた私の例の若い母親の写真に、董紅俊という名古屋在住の中国人教師が次のようなコメントを書き残した。

「母親の偉大さに感心しますが、それよりもここまでして苦労しなくて済む国にしてもらいたいですね」

農村「下放」を経験した私は苦労をいとわないが、このコメントには同感だ。

■筆者プロフィール:莫邦富

1953年、上海市生まれ。85年に来日。『蛇頭』、『「中国全省を読む」事典』、翻訳書『ノーと言える中国』がベストセラーに。そのほかにも『日中はなぜわかり合えないのか』、『これは私が愛した日本なのか』、『新華僑』、『鯛と羊』など著書多数。
知日派ジャーナリストとして、政治経済から社会文化にいたる幅広い分野で発言を続け、「新華僑」や「蛇頭」といった新語を日本に定着させた。また日中企業やその製品、技術の海外進出・販売・ブランディング戦略、インバウンド事業に関して積極的にアドバイスを行っており、日中両国の経済交流や人的交流に精力的に取り組んでいる。
ダイヤモンド・オンラインにて「莫邦富の中国ビジネスおどろき新発見」、時事通信社の時事速報にて「莫邦富の『以心伝心』講座」、日本経済新聞中文網にて「莫邦富的日本管窺」などのコラムを連載中。
シチズン時計株式会社顧問、西安市政府国際顧問などを務める。

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