映画「アクト・オブ・キリング」監督に聞く―インドネシア大虐殺を“再現”人間の闇暴く

Record China    2014年4月10日(木) 14時52分

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9日、ドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」が4月12日公開される。作品写真:(C)Final Cut for Real Aps,Piraya Film AS and Novaya Zemlya LTD,2012

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2014年4月9日、インドネシアで起きた100万人大虐殺の真相に迫るドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」が4月12日公開される。事件の被害者に話を聞くのではなく、加害者に自らの行為を演技で「再現」させることにより、人間の心の闇と大量殺人の狂気をあぶり出した。ジョシュア・オッペンハイマー監督は「現代社会は巨大な暴力の上に成り立っている」と語った。

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1965年、インドネシア。9月30日の深夜、スカルノ初代大統領派の陸軍左派がクーデター未遂を起こした。後に大統領となるスハルト少将(当時)が鎮圧。「事件の黒幕は共産党」と断定され、インドネシア全土で同党支持者とされた人々や華僑ら100万人以上が殺害された。「9月30日事件」と呼ばれる一連の出来事は、その後30余年にわたるスハルト独裁体制の下でタブーになり、加害者の訴追も行われていない。

オッペンハイマー監督は当初、事件の被害者を取材していたが、軍の妨害で中断を余儀なくされた。そこで加害者──殺人の実行部隊となった地元のギャングたちに「あなたが行った虐殺を演じてくれませんか」と要請。スマトラ島メダン市で「1000人以上は殺した」と豪語する殺人部隊リーダーのアンワルらが、喜々として大虐殺の方法を「演じて」みせた。

2012年トロント国際映画祭などを皮切りに、同作は世界の映画祭を席巻。ドキュメンタリー映画の名匠で今回製作総指揮を務めたヴェルナー・ヘルツォーク監督が「映画史上類を見ない作品」と絶賛するなど、世界的に高い評価を得ている。

──加害者たちは人を殺すのにまったく迷いがありません。なぜブレーキもなく虐殺が行われたのでしょうか。

殺人を犯す行為は、人間が恒常的に持つ資質だと思う。地球上のほかの生物には見られない。同類を殺すことができるのが人間だ。効率良く、勢い良く、仲間を殺し、トラウマを感じるのもまた、人間の資質だ。

人を殺す場合、対象と距離をどの程度を置けるかが鍵になる。たとえば米軍はアフガニスタン、イエメンで無人機を使い、人々を殺りくしている。(オバマ米)大統領が毎週長いミーティングを行い、リストの中から殺す人間を決める。「この人物は生きていれば今後これだけ人間を殺す。だから先に殺してしまったほうがいい」という論理を使う。大統領自身は哲学のセミナーに出席し、指示しているような気持ちだろう。それが距離の取り方の一つの方法だ。

(インドネシア大虐殺の)加害者にインタビューする過程で、アンワルは41人目の取材対象だった。ほかの人々は「軍からウイスキーを与えられ、感覚が鈍った状態で人を殺した」などと話していたが、アンワルは違った。映画が大好きで、自分のヒーローであるエルビス・プレスリーに感情移入し、明るく踊りながら殺りくしていた。つまり彼にとって「アクト・オブ・キリング」は、殺人という行為そのものであると同時に、演じることで殺人と距離を取る作業になっていたわけだ。

あなたがもし「誰かを殺せ」と言われたら、心の中でブレーキがかかるかもしれない。しかし問題は、どこで誰を殺すかではなく、いかに殺人という行為から距離を取れるかなのだ。

──虐殺の被害者は「共産党関係者」のレッテルを張られました。権力者が人々の個性を消し、名もなき集団にしたうえで命を奪う。世界各地で起きている現象です。

そうだ。哲学者のマックス・ウェーバーは「現代の国家は巨大な暴力を独占している」と言った。国家はそういう資質を持っている。65年のインドネシアで起きたことは、別の場所でも起きたこと。(大虐殺が)カンボジア、ルワンダ、ドイツで起きた時は、加害者が権力の座から引きずり降ろされた。しかし、世界的には例外的な結末だ。むしろインドネシアのように、加害者が権力を握り続けているケースが多い。

政治家は暴力を使うことにより、物事を集約したり、権力の座に居座るのが法則となっている。現代社会は巨大な暴力の上に築かれている。今回描いたことはその法則に合致し、加害者は裁かれずに罪を逃れている。加害者が自慢気に語る多くのシーンは、まさにその法則を表しているんだ。

──将来的に被害者が口を開き、和解に向かうと思いますか。

(舞台となった)メダンは、他の地域に比べて事実を語ることが難しい。今回告発されたギャングたちが地域を仕切り、独占的に力を握っているからだ。ただし、今回の映画で状況は少し変わった。新聞などメディアが「虐殺は間違っていた」とはっきり書けるようになってきた。ギャングが権力を握っている現状も、少しずつだが問題視できるようになってきた。

──宗教と事件の関連性をどうとらえますか。

今回のケースでは虐殺の後、自らの行為を正当化するため宗教が利用された。彼らの言い分では「被害者は無神論者だった。そのままにしておくと彼らは他人を殺す。だから先に殺してしまう」という論理だ。

しかし、それが本当ではないことは、映画を見れば分かる。イスラム教の祈りの声が町の放送で流れてきた時、彼らは「いま話しているのは共産党員だったんだぞ。俺の手にかからず運がいいやつだ」と話している。犯罪や薬物にも手を染め、宗教的な規範を守っていない。恐らく彼らは敬けんなイスラム教徒ではない。その証拠に下品な話をした後すぐ、お祈りをしていた。見れば分かることだ。

歴史をひもとくと、宗教の名のもとに行われた集団的暴力の中には、実は権力者が野心や強欲にかられ、名目で宗教を使った例がみられる。今回の加害者たちは宗教を口にしながら、敵を抹殺し、金銭を得るため人を殺していた。後づけで宗教や反共産主義などを理由にしたわけだ。

この問題は、結果的にインドネシアの政権を支持してきた日本を含む各国にも関係している。インドネシアの大虐殺は、一つの「冷戦」の産物だったのではないか。日本を含む先進国は、南の豊かな土地を支配したいがために政権を支援した。安い賃金と資源が魅力で、自らの行為を正当化するため、「反共」の旗印を掲げたのだと思う。

──暴力は一貫して取り組んできたテーマですね。

特に暴力に魅力を感じているわけではない。むしろ「人は何かを語ることにより、どうやって自分を正当化するか」に興味がある。うそをついた痛み、真実から逃れようとする人間の側面、うそが与える影響に関心がある。だから「アクト・オブ・キリング」は物事を語ること、「自分はこういうものを見たくない」という否定についての映画でもある。

人が自分の見たくないものを、見ないようにするために、どんな方法を使うか。どう物語をうまく使うか。今回はうそを一枚ずつはがしていって、本当は見たくなかったもの、つらい真実と痛みを発掘する作業でもあった。本物の自分と和解するためには、つらい真実と向き合わなければならない。

作品の中で暴力の再現シーンが目につきやすいが、65年に起きたことを伝えようとしたわけではない。現場でどんな暴力が行われたかを見てもらうためでもない。彼らが自分の頭の中で、あの出来事をどう再現しているのか。どう「物語って」いるのかを見せた。私は当時起きた出来事に興味はない。今現在、彼らが生きていくために、どんなうそをついているのか。どう語っているのかに興味があったんだ。

──自分の罪に向き合ったアンワルは、勇気がある人間といえるのでしょうか。

自分の気持ちに正直になる勇気があったともいえるが、やはり人を殺すことは自己中心的な行為だ。むしろ臆病だったのだと思う。ほかの加害者たちは痛みを心の奥底に隠している。しかし、アンワルは毎晩トラウマで悪夢を見ていた。痛みが心の表面近くにある。だから正直にならざるを得なかったのでは。勇気があるとはいえないだろう。(文/遠海安)

ジョシュア・オッペンハイマー(Joshua Oppenheimer)1974年、米テキサス州生まれ。米ハーバード大、英ロンドン大に学ぶ。政治的暴力と想像力の関係性を探るため、10年以上にわたり民兵や暗殺部隊、犠牲者たちを取材。監督作品は「THE GLOBALIZATION TAPES」(03)など多数。英芸術・人権研究評議会ジェノサイド・アンド・ジャンル・プロジェクト上級研究員。関連著書も多数。

「アクト・オブ・キリング」(2012年、デンマークノルウェー英国

監督:ジョシュア・オッペンハイマー

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