大串 富史 2020年10月5日(月) 18時20分
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中国・大連の日本語学校の日本語教師の先生たちと、中国人には「通じない日本語」なのでは?と話題になった、上海交通大学出版社の日本語学習用テキストの例文は、実は毎日新聞からの引用だった。
先日、同僚であるオンライン日本語学校の日本語教師の先生たちとグループチャットをしていて、日本語というのは自分の主観や感情を表現するのに適した言語であるものの、事実関係を第三者と共有するにはあまり適していない言語なのだと、つくづく思った。
今回話題に上った中国人の日本語学習者向けの課題文は以下の通りなのだが、さて、この記事をお読みになる日本人の皆さんは、この文章から作者の言いたいことをどれほど正確に理解できるだろうか。
「私の父は、今年85歳になった要介護2の認知症(痴呆)である。その父の介護をしているのは、今年80歳になる母である。週2日のデイサービスを利用しているが、毎日のことでだいぶストレスがたまるようだ。(中略)
他人を家に入れたくない母の気持ちを考えるとなかなか先に進まず、ついつい言い争いになる。するとそばで聞いている父が『老いては子に従え』と言う。まるで、ぼけたふりをして私たちを試しているようだ。そこで私たちも笑ってしまう。『一番幸せなのは父かもしれない』と。
他人に力を借りて、無理せず気負わず、のんびりと暮らしたいものである。最近母に『いざという時は土地を処分して施設に入ろう』と言っている。
(中略)これから先の私たち夫婦のことを考えると、2人の娘たちに迷惑をかけず(中略)お互いに尊重し合い、いつまでも仲良く心静かに暮らせるか。ただ今、親を手本に人生勉強中である。」
日本人であればこの文章を読んで、作者の言いたいことが大体分かるかもしれない。しかし外国人(この場合は日本語を学ぶ中国人の生徒さん)にこの文章の意味を正確に説明するとなると、とたんに問題が生じる。
たとえば、「他人に力を借りて」とある。これはその前の段落にある「他人を家に入れたくない」というカギとなる逆の意味のフレーズを目にして初めて、家族以外の人のケアを受け入れる、とすんなり分かるのだが、「他人に力を借りて」というフレーズだけを単独に取り上げると、直後にある「無理せず気負わず」というフレーズから、自分の家族(この場合は「母」および「私」)のケアを受け入れる、と真逆の結論に容易に至りかねない。
つまり「他人に力を借りて、無理せず気負わず、のんびりと暮らしたいものである」とは誰の言葉なのか、私なのか父なのか母なのかが、文章全体を読み込まないとよく分からない。それが分かって初めて、続く「最近母に『いざという時は土地を処分して施設に入ろう』と言っている」のは私なのか父なのかもやっと分かる。
さて、ここでもし仮に「ただ今、親を手本に人生勉強中である」という結論を使って、親はどんな手本を残しましたか?みたいな質問を中国人の学生にするなら、それこそカオスであろう。
もしただ字面だけを追うとすれば、「今年85歳になった要介護2の認知症(痴呆)で、『老いては子に従え』(家族以外の人の力を借りなさい)と言う、一番幸せなのかもしれない父」と「今年80歳になる、週2日のデイサービスを利用しているが、毎日のことでだいぶストレスがたまっており、(家族以外の)他人を家に入れたくない母」の一体どこが、「(自分の老後は家族以外の)他人に力を借りて、無理せず気負わず、(自分たち夫婦が)お互いに尊重し合い、いつまでも仲良く心静かに暮らしたい私」にとって「手本」となっているのか。
とはいえ僕たち日本人にしてみれば、日本人にとって身近な老老介護の過酷な現実や、老いても痴呆になっても親は親という日本人の美徳や、人生の先輩である父親や母親にエールを送るという意味での「(お)手本」という日本人らしい表現は、まあ分からなくもない。
変な文章!と思われただろうか?種明かしをすれば、この文章は毎日新聞(2005年3月1日・東京朝刊)からの引用なのだ。あれ?「ただ今、親を手本に人生勉強中」って、どこかで見たかも…と思われた方もいるかもしれない。それぐらい、この手の日本語表現は日本人同士でごく普通に使われている。
ところで、こうした新聞のコラムを例文として載せている上海交通大学出版社の日本語学習用テキスト(日語閲読精選50篇・第21課「年をとること」より抜粋)は、中国人の日本語学習者のためにわざわざ中国語の訳文も合わせて載せている。
たとえば上述の日本語の文章であれば、「最近(私は)母に『いざという時は土地を処分して施設に入ろう』と言っている」「(私は)他人に力を借りて、無理せず気負わず、のんびりと暮らしたいもの(だと感じる)」「ただ今、(母)親を手本に人生勉強中である」と中国語に訳している。
もう、お気付きだろうか。つまり上述の例で言えば、認知症となった筆者の父については、もはや「手本」とは訳せないのである。
これはもう、日本語は主語をよく省略するとか、わざとあいまいな表現を使うとか、敬語関連のバリエーションがすこぶる多いとか、そんなレベルの話ではない。
つまり僕たちが新聞雑誌等で普段目にし意思疎通の手段としている日本語の文章というものは、日本人同士であればそれなりに通じるものの、もしそのままだと、中国人も含め外国人にはさっぱり響かないどころか、事実関係そのものが全然伝わらず、意味の曲解をさえ招いてしまう恐れがある。
そして僕もまた、日本語を教える側になって初めて、この「通じない日本語」という真相について知る機会に恵まれたように感じる。
ここで言う「通じない日本語」というのは、日本人同士であれば諸々の共通項ゆえに字面を超えて通じるかもしれないものの、字面だけで日本語を学ばざるを得ない中国人(敷衍すれば外国人全般)には通じないかもしれない日本語の表現(特にエッセーや随筆等の文章)のことを指している。
思えば僕たち日本人は、これまで日本語をけっこう好き勝手に使ってきたのかもしれない。
だがインバウンドで外国資本に依存し、コロナ禍のため「ネット出稼ぎ」で外国の会社で働き、結果として外国で準備された日本語テキスト等を使って外国人に日本語を教えようとする時、外国人が典拠にせざるを得ない日本の新聞雑誌等の文章が、外国人には「通じない日本語」ばかりというのは、やはりまずいのではなかろうか。
実はこの「通じない日本語」の弊害は、既に生じている。
というのも中国は上海にある同済大学外国語学院日語系で中国人に日本語の作文を指導しているという宮山昌治先生によれば、これは日本語作文コンクールにおける中国人学生の「模範的な」作文という問題にもつながっているらしい。
つまり、なんちゃってコピペ作文である。
「模範的な」なんちゃってコピペ作文とは何か?「書店で売っている<模範作文集>を参考にして、インターネットでちょっと調べれば、例はいくらでも見つかるし、その例を紹介したあと、最後の締めくくりの立派な言葉につながる文章を差し挟めば、簡単に作文が出来上がる」。
それはもしかすると、下記のような作文なのかもしれないと思った。まさしく、カオスである。
「(中略)他人に力を借りて、無理せず気負わず、のんびりと日本語を勉強したいものである。最近親に『いざという時は日本に留学させて』と言っている。」
「これから先の自分のことを考えると、親に迷惑をかけず、日本語関連の仕事をして暮らせるか。ただ今、親を手本に人生勉強中である」。
■筆者プロフィール:大串 富史
本業はITなんでも屋なフリーライター。各種メディアでゴーストライターをするかたわら、中国・北京に8年間、中国・青島に3年間滞在。中国人の妻の助けと支えのもと新HSK6級を取得後は、共にネット留学を旨とする「長城中国語」にて中国語また日本語を教えつつ日中中日翻訳にもたずさわる。中国・中国人・中国語学習・中国ビジネスの真相を日本に紹介するコラムを執筆中。関連サイト「長城中国語」はこちら
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