<コラム>李香蘭が歩いた街、蘇州監獄跡を訪ねて多くの“売国奴”の亡霊を見た

工藤 和直    2020年6月28日(日) 14時10分

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李香蘭が歩いた街、蘇州監獄跡を訪ねた。

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蘇州城中央を東西に走る干将路の東端に、相門城郭楼ができた(写真1)。相門は2500年前の蘇州城創建時からあった城門である。その城門から西の倉街に至る広い敷地が蘇州監獄(刑務所)跡で、数年前は広い駐車場だった。今は再開発工事中で、まだ至る所に監獄跡が散見できる。当時の蘇州監獄正門は倉街10号にあたり、2007年5月20日に相城区黄埭(タイ)鎮に移設した。(写真2)はその移転日の門前風景である。広さは14万平方メートルになり、最大4000名が収監できる刑務所であった。干将路の南は現在、蘇州大学正門になった。

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蘇州監獄は1910年(宣統2年)に建てられ、当時は獅子口といわれた地域だったので獅子口監獄といわれ、南京の老虎橋監獄、上海の堤籃橋監獄とあわせて、中華民国三大監獄といわれ、特に政治犯などの重罪人を収監していた。

蘇州監獄(獅子口監獄)は1919年に江蘇第三監獄と改名、500名ほど収監していた。抗日戦争終了後は、国民党政府司法部が接収して約300名の漢奸(日帝に協力した売国奴)が収監されていた。その中の大物としては、陳公博(現在でも中国一の漢奸といわれる)、褚民諠、繆斌が1946年に死刑になり、偽南京政府大統領の汪兆銘(精衛)の妻であった陳壁君は終身刑(のちに上海堤籃橋監獄に移送され獄死)に処せられたのが、この蘇州監獄であった。1948年には江蘇蘇州監獄と改名し、2007年5月まで使用された。

繆斌(立法院副院長)は死刑判決後直ちに1946年5月21日に銃殺刑第一号となり、中国第一の漢奸といわれた陳公博(偽南京国民政府行政院長)は同年6月3日に処刑、褚民諠(外交部長)は同年8月23日に処刑された。上海の堤籃橋監獄では、立法院長であった梁鴻志が11月9日に銃殺刑となり、日本人では満蒙独立運動を推進した馬賊・伊達順之助(華族伊達宗敦六男)が同じく銃殺刑に処せられた。

李香蘭こと山口淑子(1920~2014年)は、漢奸容疑で現存する虹口地区興業坊の日本人収容所に収監され、上海競馬場(現在の人民広場)で処刑寸前であった。収監されたのは漢奸専用の堤籃橋監獄(上海市虹口区長陽路147号)でなく日本人収容所であったのは、中国人でないと国民党政府は認知していたためであろう。本人の佐賀県の戸籍謄本が間に合い半年後に帰国させられたが、日本に協力する“中国人女性”を演じた不遇の人生がようやく終わった。

相門城郭から西を見ると、正面南側が商業ビル工事中であるが、中央部から北は荒野で、倉街側に当時の監視塔跡(写真3上)を見る事ができる。その周囲には当時の監獄(刑務所)跡の住居跡(写真3下)など垣間見る事ができた。ここで、多くの政治犯が処刑された。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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