工藤 和直 2020年5月15日(金) 23時20分
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落瓜橋は落下した瓜(スイカ)の話が言い伝えとなっている。
第一直河、北は皋(Gao)橋から始まると記載されているが、運河はその北の桃花橋からある。皋橋から南へ、唐時代から呉趨坊という古い街路が並行する。南行するに平安橋(市民の希望で付けられた花崗岩平橋)、敦化橋(1927年市民が改修した平橋)、第二横河(干将河)南の乗騮橋、清同治13年(西暦1874年)平橋で黒毛赤馬の駿馬を意味する。第三横河南でちょうど胥門とつながる来遠橋(民国12年改修花崗岩アーチ式)があり、南下して盤門から城外に出て行く。盤門景区内にある窺塔橋は、唐時代は廟橋といわれ、近くに五相公廟(伍子胥廟)がある。1953年に改修されたが、橋桁は往時のままだ。、ここからの瑞光塔の眺めは最高である。
第二直河は蘇州駅前の平門から始まり、北過軍橋・南過軍橋の南は埋め立てられ存在しないが、その痕跡が王天井巷に残っている。河は公園や店になっているが、東西に道を擁し中央に河があったことが容易に推測できる。途中に天井小分などの牌門跡や範仲庵(宋時代の政治家)の私邸(範義荘)が景範中学校内にある。この周辺南に宋時代は呉県が置かれた場所(東は長州県)であり、兪越故士宅などが並ぶ。人民路(臥龍街)に接する所に東呉県橋があった。干将河を横切ると東美巷・西美巷と両側に河の痕跡が見られる。更に南下するに右に人民政府会議センターが見えるが、左が蘇州市民病院となり第三横河に至り志成橋となる。その南は金獅河沿になるが、埋め立てられている。志成橋は民国時代1917年創建で「衆志成城」の意味がある。
第三直河は北の斉門から始まる。南下するに臨頓橋で第一横河と交わり“臨頓河”として南下、任蒋橋になり左折すれば潘儒巷となる。白塔子橋を越え南向して西花橋(唐時代は花橋)に至り、白居易の詩「揚州駅里夢蘇州、夢至花橋水閣頭」と詠われた。その南、懸橋を左折して平江路に行くと清代状元“洪釣”の故居がある懸橋巷となる。その南が現在の観前街の入口の酢坊橋であり、北に徐貴子橋(平江図では徐鬼橋)、更に南下して碧風坊橋と落瓜橋となる。
落下した瓜(スイカ)の話が言い伝えとなっているのが“落瓜橋”である。北宋の大臣だった呂豪正(西暦943~1011年、河南洛陽人)は青年時代非常に貧しい生活をしていた。ここ蘇州に流れ着いてこの橋のたもとで生活を始めた。ある時、一人の農夫が西瓜を積んだ荷馬車でこの橋を渡ろうとする難儀を見て手伝った。そして褒賞として頂いた西瓜であったが、生活苦で持つ力なく、西瓜はあっけなく水上に落下した。その後、呂青年は進士となり時の宋皇帝に重用され、懐かしい蘇州を視察、まさに青年時代の困窮を味わったこの橋を見て、渡り易く橋を自費で改修したと言う。西瓜を落とした橋と言う事で、“落瓜橋”と名付けられた(写真1)。
その南が青龍橋、大郎橋(又の名を太郎、宋代建1982年改修平橋)となる。太郎がおればどこかに二郎がいるはず、葑門から入って左折すれば二郎巷がある。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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