木口 政樹 2020年5月9日(土) 22時10分
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1937年、ソウルのある病院の小児科に、勤務して1週間になる若い医者がいた。そこで激しい「消化不良」を病んでいる生まれたばかりの赤ちゃんと出会う。この出会いが彼の生涯を決めることになった。資料写真。
どうしても今はコロナか金正恩の話題になってしまうが、今日はまったく趣を変えて、ある飲み物の話を書いてみたい。ネットにある内容(韓国語のユーチューブを日本語に翻訳して)を筆者のことばで書いたものである。
昔、韓国では原因不明の病気で赤ちゃんがたくさん死んでいた。1937年、ソウルのある病院の小児科に、勤務して1週間になる若い医者がいた。彼はそこで激しい「消化不良」を病んでいる生まれたばかりの赤ちゃんと出会う。この出会いが彼の生涯を決めることになった。
痛々しいほどに痩せた手と足に、腹だけぷくっと膨れた赤ちゃんが、食べては即、下痢・嘔吐を繰り返していた。赤ちゃんの病名は「消化不良」だったのだが、どんな処方をしても下痢と嘔吐を止めることはできなかった。赤ちゃんをなんとか生かしてほしいという母親の願いも空しく、赤ちゃんは死んでしまった。この医者が出会ったはじめての試練だった。この病を治すために彼は生涯をささげることとなった。
この医者は本格的にこの病気に対して研究を始めたのだが、このように原因不明の消化不良で命を落とす赤ちゃんが一人二人ではなかった。普通の消化不良でなかったが、韓国国内の医者の中で正確な原因がわかる医者は誰もいなかった。この医者は数年間この病気の原因を探すために研究をしたのだが、韓国ではこの病気に対する端緒をみつけることができなかった。
それで彼は1961年、44歳の時に留学することになった。はじめはロンドン大学の大学院に行ったのだが、そこではヒントを見つけられなかった。次に行ったのが米国のサンフランシスコUCメディカルセンター。ここである論文を発見するのだが、その論文の中にそれまで彼が探し続けてきた、原因不明の消化不良の症状と原因が書かれてあった。ついに数十年間見つけられなかった赤ちゃんの死亡原因を見つけることができたのである。
原因不明の消化不良の正体は、「乳糖不耐症」であった。乳糖不耐症というのは、牛乳の中にある乳糖(ラクティオス)を分解する力が足りないために発生する病で、下痢、嘔吐、腹痛などの症状が出る。乳糖不耐症は韓国人の75%、全世界的には70%の人が病んでいるあまりにもありふれた疾病だ。成人の場合にも牛乳のような乳製品を摂取した時に下痢や消化不良、ガス、腹痛などの症状が出ることがある。しかしこれらは、乳糖を含んだ製品を避けさえすれば症状が出なくなる。成人の場合は牛乳の代わりに栄養を摂取できる代替物がたくさんあるため栄養失調などの問題はなかった。しかし赤ちゃんの場合は違った。当時赤ちゃんが摂取できるものは母乳や牛乳のほかになかった。
ところでこういった食品には全て乳糖が含まれている。本来乳糖は赤ちゃんにとても重要な栄養供給源として普通の赤ちゃんは乳糖を吸収して健康に育つのだが、先天的に乳糖を分解することのできない赤ちゃんには、下痢、嘔吐、腹痛などの症状が現れる。
この医者が米国で「乳糖不耐症」という病を発見するまで、韓国ではこの病の原因が牛乳と母乳の中にある乳糖だという事実を知っている人は誰もいなかった。ために赤ちゃんに牛乳・母乳をずっと飲ませ続け、飲んでは下痢、飲んでは嘔吐という悪循環を繰り返していた。しかしながら、わかったからといって、その当時には赤ちゃんに母乳とか牛乳の代わりに代替できるものがなかった。乳糖不耐症の赤ちゃんは、栄養失調になり激しい場合には死亡する。
この病を知るようになったくだんの医者は、乳糖がなくても赤ちゃんに充分な栄養を供給できる牛乳および母乳の代用食を作ろうと考えた。4年後に韓国に帰国した彼は、平日には病院で赤ちゃんを診療し、休日には牛乳の代用食の開発に没頭した。牛乳の代わりになる食品は何かあるだろうか?そんなことを日々考えていた彼に、突然のごとく閃きが訪れた。それがすなわち、自分が幼い時に母が作ってくれた「コングク」(豆のスープ)だった。豆には乳糖はないけれども「神様が与えてくれた完全食品」と言われるほど栄養がぎっしりと詰まっている。
彼はすぐに豆スープを作って成分分析を繰り返し、それを土台に豆乳を作った。豆乳を使って乳糖不耐症の治療実験を繰り返してみるととてもうまくいくようだった。彼はすぐに自分の患者の中で乳糖不耐症を患っている新生児に豆乳を処方してみた。効果は想像をはるかにこえるものだった。どんな薬を使っても効果が見えなかった赤ちゃんたちの下痢と嘔吐が止まり、腹痛を訴えることがなくなった。さらに痛々しいほどにやせ衰えた体に肉がつき、赤ちゃんたちはしだいに気力を回復していった。
原因不明の消化不良が治るといううわさが全国各地に広がり、病に苦しむ患者たちが押し寄せることになった。とても多くの患者が来るようになると、家内手工業的にやっていた豆乳づくりは限界を迎えつつあったのだが、全国からやってくる患者たちをそのまま返すわけにもいかなかった彼は、驚くべき行動をとった。ただただ豆乳をすべての赤ちゃんに供給しようとの信念から、医者をやめて会社を立ち上げたのである。
1973年、「ジョン食品」という会社が設立された。この医者がすなわちジョン・ジェウォン名誉会長である。ジョン・ジェウォン会長は、自分が作った豆乳に野菜と牛乳をミックスして製品とし、「ベジミル」という名前をつけた。今私たちがマートなどで簡単に見ることのできるベジミルは、多くの赤ちゃんたちを救った奇跡の飲料だったのである。ジョン・ジェウォン会長は豆乳をさらにたくさん作るため、1984年チョンジュ(清州)に当時世界一規模の工場を建てた。1年後の1985年からは研究所も作り、経営から退いてもう一度豆乳の研究に没頭することになる。ジョン・ジェウォン会長は、味と栄養成分を向上させるために投資と努力を惜しむことがなかった。ベジミルが今も老弱男女を問わずみんなから愛され、豆乳市場で第1位を占めることができているのは、こうした努力の賜物なのだ。
ジョン・ジェウォン会長の驚くべき活動はここで終わるのではなかった。こうした努力にもかかわらず依然として国民に供給される豆乳がまだまだ足りないと感じたジョン・ジェウォン会長は、品質のよい豆乳をさらにたくさん供給するため業界1位の企業としては異例的にOEM専門会社「自然と人々」を設立し、競争社に原料を提供したのである。
当時豆乳に関しては「ジョン食品」は一人抜きんでた技術力を持っていた。この技術をもってすれば(特許など)会社はすさまじい利益を上げることができたのにもかかわらず、体にいい豆乳をもっとたくさんの人に供給するという一念で、こんな衝撃的な行動をとったのである。彼のこのような決定のおかげで、韓国では10社以上が豆乳製品を生産することになっている。
会社の規模を大きくすることより国民の健康と幸福にだけ神経を使ってきたため、「ジョン食品」は長い間業界1位を占めてきた割に、他の食品会社と比べて規模が小さなほうである。ジョン・ジェウォン会長は2017年10月9日に、100歳の生涯を終えられたが、彼の精神を継承する「ジョン食品」の努力は今も続けられている。
今はベジミルでなくても乳糖不耐症を治療できる食品がたくさん出てきている。しかしその一番最初は、赤ちゃんを生かそうと数年間研究にだけ没頭してきた一人の医者の努力があってこそ可能であったことを全ての人に知ってほしいところだ。このような温かい心を持った会社は施した分だけ返ってくるものなのか、「ジョン食品」はベジミルを出して以来47年間、不動の1位を保っている。
最近は海外市場も開拓し、中国、米国、オーストラリア、中東などにも輸出している。赤ちゃんを生かそうという信念から誕生したベジミルが、これからは韓国国民のみならず、全世界の人々の健康を守る飲料として育っていってほしいところだ。
筆者はこのベジミルが好きで、時々50個入りくらいの箱で買って飲んでいる。ベジミル開発にこういった内容があったとは知らなかった。中国、アメリカなどにもあるということだけど、日本にもあるのだろうか。ベジミル。もしあったら(あ、いや、ほかの製品でもいいですけど)、ぜひ飲んでみてください。豆乳いいですよ。
■筆者プロフィール:木口 政樹
イザベラ・バードが理想郷と呼んだ山形県・米沢市出身。1988年渡韓し慶州の女性と結婚。元三星(サムスン)人力開発院日本語科教授、元白石大学校教授。趣味はサッカーボールのリフティング、クラシックギター、山歩きなど。著書に『おしょうしな韓国』、『アンニョンお隣さん』など。まぐまぐ大賞2016でコラム部門4位に選ばれた。 著書はこちら(amazon)Twitterはこちら※フォローの際はメッセージ付きでお願いいたします。
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