<コラム>蒋介石いわく“莒にあるを忘れることなかれ”とは

工藤 和直    2019年12月9日(月) 22時0分

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莒(キョ)県は山東省日照市の西側、臨沂市沂南県の東側に位置し、沭河(じゅつが)が北から南へ流れ、その東にあたる。春秋時代に莒国都城が置かれ、戦国時代には斉の支配下に入った。

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莒(キョ)県は山東省日照市の西側、臨沂市沂南県の東側に位置し、沭河(じゅつが)が北から南へ流れ、その東にあたる(図1)。春秋時代に莒国都城が置かれ、戦国時代には斉の支配下に入った。莒国は周の武王が紀元前1050年頃に夏の少昊の子孫を封じた国で、紀元前431年に楚に滅ぼされるまで、23代約600年間続いた。城の規模は大きく、城壁は外・中・内の三重構造で、外城は南北5.5km×東西4.5kmで周囲19km、内城は東西2km×東西1.5kmで周囲7kmあった。

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外城には官史・平民・商人が住み、内城には国王一族が住んだ。総面積24.8km2になる。北西角に高さ3m×長さ300mの城壁跡が見られ、中城の南面は高さ8m×長さ700m余が残っていたが、多くは再開発によって消滅しつつある。城の内外から殷周時代の多くの遺物が発見され、莒国博物館(莒県銀杏大道バス停)に展示されている。(写真1)は博物館にある莒国故城の想定模型である。

紀元前686年夏、斉国の公子「小白」が兄の襄公(斉国14代君主)の恐怖政治から逃れ、重臣の鮑叔と莒国に亡命して来た。まもなく襄公は公孫「無知」によって暗殺され、その無知(15代君主)もまた翌年に暗殺されてしまう。ここで空位になった斉国王の地位を魯国に亡命中の公子「糾」と莒国に亡命中の公子「小白」が争い、先に戻った「小白」が第16代斉国王「桓公」として即位した。莒国に亡命して辛苦困難を忘れず最後に国王となったエピソードから、“母忘在莒(莒にあるを忘れることなかれ)という言葉が生まれた。

時は移り1938年2月18日抗日戦争の折、国民党軍司令「劉震東」(中将、沂南張庄人51歳)はわずか400名の部隊で、青島から転戦した日本軍1000名を抹殺する快挙を行った。この戦いで莒県城を死守した司令「劉震東」と中隊長「呉国臣」が戦死、司令クラスが殉死する事態になった。その後国民党軍による烈士追悼会において、この忠勇に対し莒県を「震東県」と命名した。

1949年後、台湾に逃れた中華民国の指導者蒋介石は「毋忘在莒」(莒に在るを忘れることなかれ)と訓示した。国土の大半を中国共産党(中華人民共和国)に奪われ一角を保って反攻を期する状況を、春秋の故事になぞらえたものである。しかし、蒋介石が言いたかったのは、先の抗日戦線で戦死した劉震東将軍のように殉死も厭わぬ心構えを将兵に鼓舞させたのでなかったかと推測される。「毋忘在莒」・「光復大陸」(大陸を取り戻すこと)というスローガンから採った「莒光」という語は、台湾鉄路管理局の列車種別(莒光号)や、厦門島の隣の金門島にある軍事記念施設(莒光楼)、馬祖島の村名(莒光郷)などから伺われる。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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