<コラム>アセアンに最初に建設された日本神社を訪ねて

工藤 和直    2018年11月12日(月) 9時20分

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アユタヤ日本人町は、バンコックからチャオプラヤ川を真北に70キロメートル上流東岸にあり、アユタヤ王都の入口にあたる地域に東西230メートル×南北570メートルの面積を有した。写真は筆者提供。

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山田長政(1590年~1630年)、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)のアユタヤ日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)と称した(写真1)。アユタヤ王朝(1351年~1767年)は、現タイの中部アユタヤ県を中心に展開したタイ族による王朝であった。

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長政の出生は駿河国の富厚里とされる。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わって頭角を現し、アユタヤ郊外の日本人町(日本人が2000~3000人いた)の頭領となった。スペイン艦隊の2度に渡るアユタヤ侵攻をいずれもしりぞけた功績で、国位第3位であるオークヤー・セーナーピムックという官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤ川に入る船から税を取る権利を得た。長政はアユタヤ王朝の国王ソンタムの信任を得て、シャムの王女と結婚とあるが、タイ側の記録に該当する人物が見られないことから、その歴史的実像は明らかでない。

長政は1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した。毒殺はカラーホーム(シーウォーラウォン)の密命によるものとオランダの史料は記している。その後、「日本人は反乱の可能性がある」と見なされ、アユタヤ日本人町は焼き打ちされた。

アユタヤ日本人町は、バンコックからチャオプラヤ川を真北に70キロメートル上流東岸にあり、アユタヤ王都の入口にあたる地域に東西230メートル×南北570メートルの面積を有した。まさに王都を守る位置に存在した(地図1参照)。当時の記録を見ると、チャオプラヤ川の東岸に展開し、中央には東西の大道がありその先に日本式神社があったという。ちょうど、「アユタヤ日本人町の跡」石碑がある付近であろうか。

日本人町跡は1933年(昭和8年)に発掘調査され、日本刀などの武具が見つかった。1935年(昭和10年)に設立された「泰日協会」はこの付近1万2000平米を遺跡保全のため土地購入取得し、1938年(昭和13年)に旧日本海軍練習艦隊が当地に山田長政神社(祭神:山田長政)を建立した。この神社は、中国大陸・朝鮮半島・台湾を除けば、アセアン(ASEAN=東南アジア諸国連合)に最初に建設された日本神社であった(写真2)。

現在、「アユタヤ日本人町の跡」石碑の北に小さい神社が創建されている(写真3)。2007年故プミポン国王ご誕生80歳、タイと日本修好120周年の機会に日本人村には日本庭園を含め展示館を大々的に改装した。この日本人村に行くには、アユタヤ駅から南に国道3477号を南下、ワットパナンチューンから約1キロメートル行った右側にある。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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