Record China 2018年10月31日(水) 8時50分
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中国の大衆小説の1ジャンルである武侠(ぶきょう)小説の超大家とされていた金庸さん(写真)が30日午後、香港の病院で亡くなった。94歳だった。香港だけでなく中国大陸も含め中華系メディアが一斉に報じた。
中国の大衆小説の1ジャンルである武侠(ぶきょう)小説の超大家とされていた金庸(本名:査良●、●は金へんに「庸」)さんが30日午後、香港の病院で亡くなった。94歳だった。香港だけでなく中国大陸も含め中華系メディアが一斉に報じた。多くの記事が金庸さんの功績を振り返った。中国メディアの新浪網は「深まる秋、皆の目に涙」と評した。
金庸さんは1924年、浙江省海寧県で生まれた。外交官を目指して大学に入学したが、不正に抗議したことで退学を余儀なくされた。その後、新聞社で記者や英語国際放送の受信担当などを経験した。当時の中国の主要紙だった大公報に翻訳担当として採用され、香港支社に派遣された。しばらくして、映画評論の執筆などをするようになった。
55年に、小説の処女作である武侠小説の「書剣恩仇録」を発表すると大評判となり、一躍人気作家となった。59年には香港紙「明報」を創刊。当初はゴシップなどを扱う大衆紙だったが、中国大陸から香港に大量に難民が流入した事件などを受け、一般紙へと変貌した。金庸さんは同紙社説と連載小説としての武侠小説を書き続けた。
武侠小説とは、武術に長け義理を重んじる人物を主人公とした小説の総称で、金庸さんの作品は「華人がいれば必ず金庸の小説がある」と言われるほど人気を得た。金庸さんが出現するまで、知識人は武侠小説を「低俗」として軽んじる傾向があったが、金庸作品は歴史などの豊かな教養を背景とし、西洋小説の手法も取り入れるなどで、知識人にも評価された。
武侠小説としては15作を残した。金庸さんは、武侠小説を文学として評価できるレベルに引き上げたと高く評価されている。また、多くの作品が映画やドラマ、漫画、ゲームなどさまざまな形式にリメイクされた。
ただし金庸さん自身は、自作の映像化作品に不満を持つ場合が多かった。金庸作品を熟知する人が多いために、映像化作品では無理な脚色をする場合が多かったからなどとされている。
ジャーナリスト/政治評論家としての立場は中道で、中国共産党の施策を強く批判することも多かった。60年代に中国大陸で文化大革命が始まると、早い段階で真の目的は劉少奇打倒にあると推測、文革後期には林彪の失脚を推測するなど、政治について極めて鋭い感覚を示した。
金庸さんは93年に、手掛けてきた明報集団を売却し、完全引退を宣言した。その後、2006年にはケンブリッジ大学に修士論文「初唐の皇位継承制度」、10年には博士論文「唐代繁栄期の皇位継承制度」を提出した。
金庸さんは10月30日午後5時ごろ、香港の養和医院(病院)で息を引き取った。最後をみとった息子の查伝倜さんは取材の記者に対して「午後に旅立ちました。とても安らかでした」とだけ説明した。(翻訳・編集/如月隼人)
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