<コラム>キョンシーの額にお札を貼って動きを封じるのは科学的でないが、れっきとした科学技術だ

如月隼人    2018年9月16日(日) 0時30分

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「霊幻道士」という香港映画がありました。獰猛に暴れるキョンシー。襲われた主人公がキョンシーの額に呪文が書かれたお札を貼ります。そんなことを思い出し、なぜか「科学とは何か」「科学技術とはなにか」ということを改めて考えることになりました。写真は「霊幻道士」。

「霊幻道士」という香港映画がありました。獰猛に暴れるキョンシー。襲われた主人公がキョンシーの額に呪文が書かれたお札を貼ります。とたんに凍りついたように動きを止めるキョンシー。主人公は絶体絶命のピンチを逃れた。おもわず安堵のため息。その息でお札がはがれ、キョンシーが再び暴れだす。タイミングや音響も絶妙で、上映館は割れんばかりの大爆笑。私もお腹の皮をよじらせて笑いました。

そんなことを思い出し、なぜか「科学とは何か」「科学技術とはなにか」ということを改めて考えることになりました。というのは、「科学」と「科学技術」がひとからげに認識されていることに疑問を持っていたからです。「科学」と「科学技術」は違うものだとはっきりと認識した上で、両方の研究を進めていくべきというのが私の考えです。

科学というのはそもそも、役に立つかどうかを度外視して研究するものです。一方の科学技術は実用を目指します。しばらく前に、英国のホーキング博士が死去して話題になりました。ホーキング博士が研究したのは科学であって科学技術ではありません。例えば博士が理論研究に尽力したブラックホールに関連する事象に、実用性はまずありません。

私は、人類は旺盛な好奇心を持つ存在と信じています。学ぶことが好きなのです。「学ぶ」と言えば、学校時代の経験で「いやだなあ」と思う人も多いでしょう。私も同意します。でも、人は学ぶこと自体を嫌っているわけではないのです。学びについて枠が設けられ、強制されることが嫌なのです。もっと具体的に言えば、試験というシステムで評価され、場合によっては進学や就職でのふるい落としの基準にされることで、恐れを感じてしまうのです。

テレビでは情報番組が人気です。推理小説も根強い人気を持っています。人とは本質的に、頭を使って新たな真実を知るのが、好きな存在なのです。

科学とは、人が本質的に持つ「知への欲求」が顕在化したものです。知への欲求を、可能な限り緻密な論理で構成した体系です。こうご説明すると「科学は役に立たないのか。では、研究を公的に支援する必要はないな」という意見が出てきます。

ちょっと待ってください。そうとも言えないのです。例えばアインシュタインの特殊相対性理論は純粋な「科学的興味」から導き出されたわけですが、例えば回りまわって核兵器や原子力の活用という成果を導き出しました(核兵器や原発が人類の役に立っているかという議論からは、ここでは離れておきます)。

別の話もしましょう。私は学生時代に理系、特に数学の勉強をしたのですが、当時は「整数論」という分野がおおむね、「実用性はない。知的好奇心を純粋に追求する分野」と見なされていました。ところが現在は整数論が、情報化の流れに絡んで暗号理論の最大の武器になるとして応用面でも花形分野だそうです(数学が科学のジャンルと認められるかどうかという議論にも、ここでは触れません)。

つまり、科学の探求とはよくできたもので、知的好奇心を満したいという人類特有の欲求が出発点なのですが、現実としても大いに役立つ場合があるということです。

そこで、「科学技術」についてです。私は「科学とは異なる」と強調したい。というのは、科学技術の目的は現実への応用だからです。役立てられるかどうかが最大の焦点です。科学の成果の蓄積を可能なかぎり利用しますが、場合によっては「理屈ははっきり説明できないが、とにかくこうやれば上手くいく」だって許されるわけです。

「科学」と「科学技術」は両方とも、正しい方向で研究を進めるならば、人類にとってよい状態をもたらすと信じています。そして、公的な資産の投入に際してはとりわけ、両者の違いをしっかりと認識し、バランスよい配分を目指さねばなりません。

短期的な成果に目を取られて、純粋な科学への配分をけずりすぎたのでは、人が人として求める本能を抑えることになってしまいますし、実用面についても将来の成果を閉ざしてしまうことになります。科学技術への投入が不足したのでは、近い将来に禍根を残すことになります。いわゆる先行投資の不備です。

さて、このあたりで改めて「キョンシーの額へのお札」を考えてみます。やはり、科学的とは言えませんよね。因果関係についての考察があまりにも不足しているからです。でも、人が自然界(超自然界?)に何らかの働きかけをして、現状をよりよくしようとする方向性は明らかです。

因果関係についてはあいまいな面は大きいが、研究と経験の蓄積によってよい結果をもたらそうとしている。これが、私が「キョンシーへのお札」を、科学的ではないがれっきとした科学技術のひとつとみなす所以です。

■筆者プロフィール:如月隼人

1958年生まれ、東京出身。東京大学教養学部基礎科学科卒。日本では数学とその他の科学分野を勉強し、その後は北京に留学して民族音楽理論を専攻。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業とするようになり、ついのめりこむ。毎日せっせとインターネットで記事を発表する。「中国の空気」を読者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執筆。中国については嫌悪でも惑溺でもなく、「言いたいことを言っておくのが自分にとっても相手にとっても結局は得」が信条。硬軟取り混ぜて幅広く情報を発信。

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