<コラム>私が30年前に出会った中国人、彼女は危険を冒して私を迎えてくれた

茶妹小丸子    2017年12月27日(水) 19時20分

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私は現在某市役所の外国人相談窓口で中国語通訳をしたり、依頼があれば医療機関で通訳をしている。私が30年前から現在に至るまで、中国や中国人と関わりを持ち生活しているのも、当時父親が仕事で知り会った1人の中国人女性との出会いから始まる。写真は北京。

私は現在某市役所の外国人相談窓口で中国語通訳をしたり、依頼があれば医療機関で通訳をしている。私が30年前から現在に至るまで、中国や中国人と関わりを持ち生活しているのも、当時父親が仕事で知り会った1人の中国人女性との出会いから始まる。

30年前、私の父親は仕事から帰宅すると「今日1人の中国人女性の医師と話をした。実は自分のレクチャーにはほぼ毎回前のほうの席で聴講していてくれて気になっていたから声をかけてみた。そしたら、亭主と小さな子どもを中国に残して、1人で日本で医学の勉強をしているらしく、1人では寂しいし、話し相手もいたほうがいいと思って、自分の娘が中国語をやっているからというのを話して、『今度3人で食事をしよう!』と約束した」と言い出し、食事会が実現した。

30年前の日本での中国に関する情報なんてないに等しい。それどころか、日本の社会は完全に欧米に向いていて中国なんて見向きもされなくて、ましてや私が中国語を勉強して、「中国語を話して金を貰いたい!」なんて言っていたら、「頭がおかしい」とか、「これからは英語の時代なのに何で中国語?」なんて言われた。当時はそんな時代。しかし、私が初めて耳にした中国語は大変面白そうな言語であった。

何と言っても今までに聴いたことのない発音と雰囲気だったのと、日本に生まれて日本のごく普通の学校に行っていたら英語を勉強するのがせいぜい。中国語を耳にすることなんてまず皆無だったから、初めて聴いた時はとても新鮮だった。ところがだ。当時は今のようにインターネットどころか携帯電話もなく、中国は家電もなかった時代。お互いやり取りをしたければ電話か手紙のみだった。そうした時代に私は無謀にも(?)中国語を選んだ。その過程において知り会ったのがこの中国人の女性医師だった。

この女性医師から聞いた中国の様子や実態は日本に暮らす我々にとっては未知の話であり、信じがたい事もたくさんあった。年月が1年2年と経ち、彼女が「もし、良ければ、一度私の暮らす北京に遊びに来て!」と言ってくれて、「そうだな、行ってみないと中国がどういったところかわからないしな!」と思い、彼女の暮らす北京を訪れた。

30年前の当時の中国は今では考えられないほど街中は暗く、レストランや店も少なく、タクシーなんかほとんどなくて、レストランに至ってはもう夜の6時とか7時で閉店。観光地も同じで早くに閉店をするような有様だった。

さらに驚いたことに当時の中国には人民元(中国の国民が使用する貨幣)と兌換券(外国人が中国で使用する貨幣)の2種類の貨幣があり、観光地等の入場料も中国人と外国人では倍ほどの違いがあった(当然、外国人料金の方が高い)。兌換券は今の若い中国人でも恐らく存在すら知らないと思われる。

人生で初めて行った中国は日本とは雲泥の差で、人々の生活、環境は日本で生まれて暮らしていた私にとってはカルチャーショックであった。住宅には風呂なんかなく、トイレにシャワーがついているという違う意味で凄い住環境であった。食生活も今とは程遠く、肉もぜいたく品のような扱いで、食卓もとても豊富とは言えないお寒い状況だった。

しかし、そんな環境とは裏腹に彼女の家族は私をとても温かくもてなしてくれた。彼女のご主人が自ら包丁を持ち、エプロンをして、食事を作っていて、私のために一生懸命にもてなしてくれた。ご主人もお医者様で、中国国内では一流の病院に勤務していたこと、5歳の息子がいることもわかった。

彼女と一緒に歩いた北京の町並みや、当時の中国の政治の事情から、現地の中国人は今のようにはつらつとはしていなかったし、政治の話はもちろんご法度であったし、日本のようなサービスなんておよそ皆無であったが、一度親しくなればとても親切にしてくれた。

実は私は当時、中国の政治事情や実情を知らないで行ったので、不思議な感覚で北京に滞在していた。日本で中国の事情を知る術なんてほとんどないから何も考えずに行った。でも、それがかえって良かったこともあったのかもしれない。フィルターをかけないで見ることができたとも言える。

私の中国語のレベルはお粗末であったので、彼女には「大学では中国語の授業はほとんどなく、独学で勉強しているから全然流暢ではないので、これから努力して勉強する!」と話したと記憶している。

北京滞在が終わり、日本に帰国後、彼女とはずっと手紙でやり取りしていた。そのおかげでネイティブの中国語の文章を目にすることができて、中国語の文章を書く勉強にもなり、大変有意義な中国語学習であったと言える。彼女の家で過ごした数日間を思い出し、彼女の家族の温かいもてなしに私はますます中国や中国人に興味を持つことになった。

当時、中国では外国人の出入国は大変厳しく管理され、外国人が中国人の家に滞在することは半ばご法度で、公安の監視対象になりかねなかった。そんな現実があったのに、彼女や彼女の家族は私をとても温かくもてなしてくれた。今思い出してもとても胸が熱くなる。

本来の中国人とはこのように客人を厚くもてなし、受けた恩に対してはしっかりと誠意を持って返すのである。彼女や彼女の家族は、まさにこの伝統的な真の中国人の姿である。

彼女がこのように外国人である私や私の家族に対しても大変なもてなしをしてくれる理由は、彼女が日本滞在中に私の父が彼女の力になり、私の母も私も、彼女の日本滞在を少なからず応援していたことがある。彼女が我々家族のそうした思いに対し常に感謝の気持ちを忘れなかったからである。こうした人間的に大変出来た、しかも当時から人口が多かった中国において、彼女のような素晴らしい中国人と人生最初に知り会ったことが、今後の私の人生を良い意味で大きく左右することとなった。

これを境に彼女とは現在までの30年間国境を越え、友人という関係を越え、姉妹や家族に近い関係になった。年月が経ちお互いに子どもが大きくなり、なんと、私の子どもが小学生になったときに彼女の家に一週間ホームステイをするという、なんとも奇跡のような関係が現在も継続中である。

インターネットや電話の無い時代に私たちは手紙を交わしながらお互いの近況を報告していた。もし、そんな手紙のやり取りもしなくて、連絡を断ってしまっていたら?今のような関係にはならなかったかもしれない。何故かお互い手紙を出したり、電話をしたりして、連絡を断つことがなかった。

今、私の人生を振り返りいつも思うのが、もし、彼女と知り合うことがなかったら、中国人や中国が嫌いになっていて、中国語の勉強も継続するという選択はしなかったかもしれない。彼女と出会ったおかげで今の私があるのかもしれないということ。

中国にはまだまだ気持ちの温かい人間がたくさんいるはず。そんな中国人ともっともっと話してみたい、触れ合ってみたい!という気持ちがとても強くなっていった私の人生は、この後も続くのである。

■筆者プロフィール:茶妹小丸子

1967年生まれ。千葉県出身。中国浙江省杭州大学(現浙江大学)漢語進修コースに1年留学。広西チワン族自治区外貿公司駐日本代表事務所に5年の勤務、上海に4年間駐在した経験を持つ。バリバリのキャリアウーマンでもない、半分パートタイムで半分専業主婦が30年間自分の目で見て聞いた事を日本の皆さんに紹介できたら!と思っている。

■筆者プロフィール:茶妹小丸子

1967年生まれ。千葉県出身。中国浙江省杭州大学(現浙江大学)漢語進修コースに1年留学。広西チワン族自治区外貿公司駐日本代表事務所に5年の勤務、上海に4年間駐在した経験を持つ。バリバリのキャリアウーマンでもない、半分パートタイムで半分専業主婦が30年間自分の目で見て聞いた事を日本の皆さんに紹介できたら!と思っている。

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