呂 厳 2016年12月31日(土) 19時0分
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東京都板橋区に高島平団地と呼ばれる巨大な団地がある。この団地は1970年代、日本の高度経済成長期におけるモデル事業として作られた団地だ。
忘年会の帰り道、私はほろ酔い気分で電車に乗った。意外なことに席が空いている。「ラッキー」と思って私は腰を下ろした。毎年この時期になると、東京の人々は帰省を始める。いつも混雑している電車の中もガラガラになって、通勤途中でも座れる日があるくらいだ。そういえば、新橋の飲食店でも同じ。いつもなら昼のピーク時は並ばなければならないが、年末になると注文までにそう時間はかからなくなる。日本のお正月シーズンは航空券が高値だし、中国のお正月シーズンに日本での仕事を休むことはできないので、もう3、4年も中国の故郷に帰って両親と一緒に新年を迎えていないことに改めて気付いた。
日本で住んでいる家のすぐ近くに、高島平団地と呼ばれる巨大な団地がある。この団地は1970年代、日本の高度経済成長期におけるモデル事業として作られた団地だ。年上の友人から教えてもらったのは「建設当時、ここには毎日のように観光客が観光バスに乗って見学に来ていた」ということ。ここに住むことは当時の若者たちにとって1つの人生の目標だったのだ。
あれからあっという間に40年余りが過ぎた。現在も団地はよく整備されていて、素朴だが住み心地の良い場所となっている。毎回、ここを通ると以前ここで生活していたような幻覚を覚える私。あの窓の向こうに私の両親の同僚たち、そして私の少年時代の友達が住んでいるような気分になるのだ。
少年時代、私は両親と5歳年上の姉と一緒に新しく建てられた政府の宿舎で暮らした。コンクリートの壁にまったく色のない、ソ連式の3階建ての建物だ。今考えると狭いし、日当たりも十分ではなかったが、中国に平屋建てが多かった80年代初頭はここに住むことに誰もが憧れを抱く時代だった。
日本の高島平団地にしても、私が少年時代を過ごした宿舎にしても、当時の住人はすでに高齢になっている。彼らの子どもたちも成人となり、親から離れてそれぞれ自分の人生目標に向かっているはずだ。
異なる国の同じような境遇。これは恐らく人類社会の変遷の軌跡であり、全ての繁栄が最後は穏やかな段階を迎えるということなのだろう。どの家にもそれぞれのストーリーがあり、登場人物の一人一人に思い出があるはずだ。「あの温かな記憶が永遠に私たちに寄り添ってくれますように」―。こんな思いが頭をよぎった私はスマートフォンを取り出してみた。開いたのは旅行サイトのページだ。どうやら、年内の中国便にはまだ空席があるらしい。
■筆者プロフィール:呂厳
4人家族の長男として文化大革命終了直前の中国江蘇省に生まれる。大学卒業まで日本と全く縁のない生活を過ごす。23歳の時に急な事情で来日し、日本の大学院を出たあと、そのまま日本企業に就職。メインはコンサルティング業だが、さまざまな業者の中国事業展開のコーディネートも行っている。1年のうち半分は中国に滞在するほど、日本と中国を行き来している。興味は映画鑑賞。好きな日本映画は小津安二郎監督の『晩春』、今村昌平監督の『楢山節考』など。
■筆者プロフィール:呂 厳
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