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中国の「纏足」と現代のハイヒールの意外なつながり

瑠璃色ゆうり
配信日時:2018年1月9日 23時50分
  • 中国の「纏足」と現代のハイヒールの意外なつながり

前回、纏足(てんそく)という制度についてまとめてみたのですが、そもそもこの疑問の出発点が「纏足って動けるの?闘えるの?」というアホみたいな疑問からなので…で、今回はそれに対するアンサーです。

そもそも私自身、史学科で東洋史を専攻していたとはいえ、卒論テーマは唐代の東西文化交流。つまり、専門としていた時代は纏足前時代なため、はっきり言って纏足素人です。纏足に対するイメージは、「歩けない」「痛い」「残酷」「フェチ」などといったステレオタイプなものしかありませんでした。

しかし、あるドキュメンタリー番組を見たことがきっかけでその考えは変わりました。それは、現代に生きる纏足の女性を描いたものでした。そのドキュメンタリー番組を見たのは10年以上前。多分ヒストリーチャンネルかディスカバリーチャンネルで放映されたものだったはずなのですが、調べても見つからなくて…。

なので、あやふやな記憶を頼りに書きますが、この番組では何人かの纏足をした女性たちを紹介していました。そして彼女たちは文化大革命の時、「反革命分子」として強制労働をさせられていました(前回も書きましたが、文化大革命では纏足は「反革命的行為」と見なされていました)。

彼女たちは、インタビューの中で「纏足は歩けないと思われているけれど、それは違う。ちゃんと歩けるし、労働だってできた」というようなことを言っていたように記憶しています。事実、映像では彼女たちの足取りは軽く、踊りを踊っているシーンもありました。

それは「纏足とは歩けないもの」という固定概念をひっくり返すものだったのですが…何分、番組自体がうろ覚えなため、詳細がどうだったか確認しようがありません。ただ、「纏足って、実は歩ける」ということを知った番組であったことは確かです。

でも纏足の記録を見ると「壁を伝って」や「杖(つえ)をついて」、「侍女に支えられて」など従来のイメージ通り“歩けない”記述が多く見られます。歩けるのに歩けない、これはどういうことなのでしょうか?

そこで、まず「歩く」ときの動きを考えてみました。踏み出した足は、まず踵(かかと)で着地します。そして、足にかかる重心は踵から足の外側を伝って小指の付け根部分へ、そして親指まで移動します。そこで足を蹴り上げて1歩を踏み出します。つまり重心を踵→外側→小指付け根→親指の順で移動することが、足裏から見る「歩く動作」です。

で、纏足はこの動きができるのでしょうか。纏足のやり方は前回書いてあるので、そちらを見ていただくとして(もう1度アレを書くと私の心が折れます…)、まず踵部分は纏足処置されていません。つまり、着地部分は保全されているというわけです。

次に、つま先への重心の移動ですが、外側部分は指が折り曲がってくっついているので、重心移動は内側のルートを取ることになります。しかしルートが変わるだけで、踵側からつま先への重心移動は充分できます。自分でも試してみたのですが、若干内股(うちまた)になるぐらいで問題なく歩けました。そして、蹴り出し。纏足では親指だけは曲げられていません。つまり、蹴り出す力も残っています。つまり、纏足をされていても、歩行する機能は失われていないのです。

ところで「ハイヒール」は現代の纏足とも言われています。しかしこのハイヒールと纏足を比較すると、むしろハイヒールの方が「歩きにくい」のです。

何故かというと、まず、ハイヒールは、踵の着地部分が面ではなく点=ヒールの太さになります。ハイヒールはバランスが取りにくいというのは、要するにピンポイントで体重を支えなくてはいけないからです。

それから、ハイヒールはつま先と踵の2点で体を支えているため、スムーズな重心移動ができません。つま先と踵がほぼ同時に着地し、重心を移動することなく蹴り出すことになります。このようにハイヒールはバランスが取りにくく、従来の歩き方(重心移動)ができないために歩きにくい靴なのです。

さらにハイヒールと比較するために纏足用の靴についても見てみます。一般的な纏足靴にもヒールはありますが、高さはローもしくはミドルぐらい。低めのヒールです。また太さもあるので、踵の安定感は失われてはいません(余談ですが、ハイヒールでもチャンキーといった太めのヒールや、底がフラットになるウェッジソールの方がバランスを取りやすくなります)。

実は、靴底がフラットなものよりも少しヒールがあった方が、筋肉の伸縮を助けてくれるので歩きやすくなります。ちなみに歩きやすいヒールの高さは3センチぐらい。ちなみにウォーキングシューズも、それくらいの高さで作られています。

と、比較してみればみるほど「纏足って本当は歩けたのではないか?」と考えるしかないのです。しかし纏足をした女性の多くはヨロヨロと歩いていました。どうしてでしょう。

でもよく考えたら簡単なことでした。纏足の女性は、歩くために必要な筋肉が衰えていたのです。

纏足を始める年齢はだいたい5歳前後。ちょうど運動機能が発達する年代です。この時期を、激痛が伴う纏足によって歩けない状態で過ごします。歩行に必要な筋肉や機能が発達しないまま成長するのです。そして纏足の痛みが治まってきても、纏足の女性は歩く必要のない生活を送ります。結果“リハビリ”する機会もなく、ヨロヨロと歩く状態のままとなるわけです。

だから、文化大革命時のように、必要に迫られれば歩けるわけです。動けば動くほど筋肉は鍛えられますから。しかし必要に迫られたら…ということなので、纏足をした女性たちの多くは自らのライフスタイルを変えることなく、ヨロヨロ歩く状態で一生を終えていたはずです。

なのでよく言われる「纏足にすると特有の筋肉が鍛えられ、男性を喜ばせる」というのは都市伝説ですね。だって、鍛えるほど歩いてませんから。というか、纏足にまつわるセクシャルな話は全部都市伝説で一刀両断したいのですが、世の中には「は?」と思いたくなるフェチがいるのもまた事実なので…。

そんな、歩かないライフスタイルを貫くのが本来の纏足女子なわけですが、全てが全て、そういう人生を送っていたのでしょうか?

纏足が一般的になった明・清代といえば、民衆反乱が相次いだ時代です。そして、多くの女性たちがその反乱に参加し、さらに首領として活躍した女性もいました。この闘っていた女性たちの中に、果たして纏足はいたのでしょうか。

例えば、白蓮教徒の乱。白蓮教は弥勒(みろく)信仰や明教(マニ教)などをベースにした民間信仰で、明を建国した朱元璋(しゅげんしょう)が属していた紅巾軍も、この白蓮教から発生しています。

明清代の白蓮教は、弥勒から発展した「無生老母」という女神を最高神として、主に農民の間に広がっていました。この白蓮教は強い終末思想を持ち、「無生老母」から使わされた救済者によって救われると信じ、幾度も「救済者」とともに武装蜂起を起こしました。

白蓮教については、熱く語りそうなので、今回はこんな程度で(ソグド人について勉強していた私にとって、彼らが信仰していた三夷教「けん教・明教・景教」に対する愛はハンパないのです)。

この白蓮教徒の反乱には、多くの女性首領が関わっていました。明代の永楽(えいらく)年間に起こった武装蜂起(1420年)は、唐賽児(とうさいじ・別名唐三姐)と呼ばれる女性が率いていました。また、白蓮教最大の反乱になった嘉慶(かけい)年間の反乱(1796〜1805年)では教主斉林(さいりん)の死後、その妻・王総児(おうそうじ)が反乱軍を率いて闘いました。

武装蜂起はしていないのですが、王総児に先立つこと60年前、乾隆年間に捕らえられた白蓮教の女教主“一枝花(いっしか)”は、教主であると共に女武芸者であったと伝えられています。さらに白蓮教以外にも女性首領はいました。山東省にあった清水教(せいすいきょう)は、乾隆39年(1774年)に武装蜂起を起こしたのですが、教主王倫(おうりん)を義父と慕う烏三娘(うさんじょう)という女性が、女性軍を率いて闘ったという記録があります。

これら民衆反乱を取り締まる政府側にも、“女将軍”はいました。京劇の演目にもなっている沈雲英(ちんうんえい)です。

沈雲英は明代・崇禎年間の漢族の女性です。彼女は名家生まれのお嬢様ながら、学問や武芸を好み、智略にも弓馬にも優れていたと伝えられています。浙江省杭州の出身ですが、武官だった父が湖南道県へ赴任する際、いっしょに任地へ赴きます。そして崇禎11年(1638年)、任地で瑶(ヤオ)族の反乱が起こり、父は戦死してしまいます。そこで雲英は十数名の兵士を率いて闘い、30人以上の敵を倒して、見事、父の遺骸を取り戻します。

謀反が平定された後、雲英は「遊撃将軍」に任命され、父の旧領を引き継ぐことになります。この時、雲英はまだ16歳だったとそうです。雲英は翌々年、都司(下級士官の1種)賈万策(かまんさく)の後妻となりますが、夫も間もなく戦死します。夫を亡くした雲英は故郷に戻り、私塾を開いて生計を立て、生涯を終えたといいます。

雲英の容姿は色黒で身長は7尺も(1尺約33センチとするとなんと2メートル越え!)あったといいます。まさしく明代のハンサムウーマン。思わず姐さんついて行きますと言いたくなるような女丈夫です。

で、これらの女性たちは纏足をしていたかどうかといいますと、「していない」可能性の方が高くなります。例えば王総児はもと旅芸人、烏三娘は貧農出身だったので、まず纏足はありえません。漢族のお嬢様だった沈雲英なら纏足した可能性もあるのですが、父親に付き従って行動していたことを考えると、仮にやったとしても“纏足ほどき組”(※)だった可能性が高いと思います。※辛亥(しんがい)革命の女性革命家・何香凝(かこうぎょう)や女医の先駆者・石美玉(せきびぎょく)の母など、自分から纏足を止める人も少なからずいたらしいです。

ただ、清代には女性の2人に1人は纏足であり、農村部にも纏足が広まっていたこと(詳細は前回参照)、これらに民衆反乱に参加した女性たちの中には未亡人も少なくなかったことから、纏足を施された女性でも、立ち上がって闘った人たちはいた可能性は高いはずです。中でも纏足を確認できる可能性が一番高いのが、義和団です。

義和団は、1900年に「義和団の乱」を起こし、「扶清滅洋」をスローガンに欧米列強へ宣戦布告をしたことで知られています。そしてこの義和団には、少女たちで構成された「紅燈照(こうとうしょう)」、紅燈照より年長のお姉様たちによる「藍燈照(らんとうしょう)」、未亡人たちによる「黒燈照(こくとうしょう)」、妓女たちによる「花燈照(かとうしょう)」という、女性だけの組織がありました。

中でも有名なのが少女たちによる「紅燈照」。15、6歳ぐらいの女の子を中心に構成され、年少者は“あげまき”(頭頂部の左右に“お団子”を作る、角みたいな髪型)、年長者は高髻(こうけい=お団子ヘア)で、赤い上下をまとい、右手には赤い提灯、左手には赤い扇を持っていました。ちなみに、赤い扇は武器として使います(中国武術では扇は立派な武器の1つです。一度、鉄扇の演武を見たことがあるのですが、凄い迫力でした)。

出で立ちからして“厨二心”をくすぐる紅燈照ですが、これだけではありません。彼女たちは、武術だけなく、方術も使えたとされ、孔明よろしく「風向きを変える」どころか、「空を飛んでロンドンやモスクワに火を放った」「西洋人の射撃を避け、空を飛んで去って行った」などという、数々の伝説を残しています。まあ、実際にこんなことできてたら、中国の近現代史は変わっていたでしょうねぇ…。

そして紅燈照の首領は“黄蓮聖母(こうれんせいぼ)”の2つ名を持つ林黒児(りんこくじ)という女性でした。この林黒児には、彼女とその仲間と言われる写真が残っています。

写真には、正装した林黒児を中心に、10数名の女性が写っています。林黒児自身の足元は写っていませんが、彼女の左右にいる女性たちは尖った足先をしています。つまり纏足の特徴をした足なのです。

もし、この写真が、本当に林黒児とその仲間たちであるならば、間違いなく“闘う纏足女性”はいた、と言えるでしょう(写真の真偽については何とも言えないので、断言はできませんが)。多くの女性たちが家の中に引きこもっている中で、外に出て闘う女性たちもいたはずなのです。

纏足はもう、潰えた風習であり、今後、二度と復活することはないでしょう。なぜなら、もうすでに「シンデレラ術」という、足を小さくする整形手術が確立されており、欧米で実施されているからです…(日本で導入しているクリニックはまだ無いはずですが)。

纏足はなくなっても、小足への憧憬は消えず、美醜に関するマウンティングも消えていません。それは、中国人だけでなく、人類全てに当てはまることではないでしょうか。結局のところ、心の纏足をなくすことは難しいのかもしれませんね。と、自戒をこめて締めくくります。

■筆者プロフィール:瑠璃色ゆうり
東京出身。立正大学文学部史学科卒(東洋史専攻)。ライターとしての活動は2006年から。平行してカルチャースクールスタッフや広告代理店で広告営業なども経験。2017年よりライターのみの活動に絞る。現在は美容やファッションからビジネス関係まで、幅広いジャンルで記事を制作している。張紀中版射雕英雄伝と天竜八部を観て修慶(シウ・キン)のファンになり、修慶迷として武侠ドラマファンの間では知る人ぞ知る存在に。現在は趣味にて小説も執筆中。

※掲載している内容はコラムニスト個人の見解であり、弊社の立場や意見を代表するものではありません。
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